2018年12月30日日曜日

宮島・博打尾 (2018.12.30)

宮島と言えば、厳島神社・平清盛が定番になるが、今日は趣を変えて歩いてみる。今年の9月、毛利元就の山城跡である吉田郡山城に行って、毛利氏に興味を覚えた。毛利氏が中国地方の大大名になるきっかけとなった、厳島の戦いの史跡を巡る。史跡といってはっきりとした城跡や戦場跡が残っているわけではなく、毛利氏が陶氏の陣地に奇襲をかけたときのルートを歩いてみる。
コースとしては、宮島桟橋→宮尾城跡→包ヶ浦→山道→博打尾→紅葉谷→勝山城跡→ 塔の岡戦場跡、となる。
厳島の戦い:1555年10月1日の6時に毛利軍の奇襲攻撃が開始された。博奕尾を越えてきた毛利軍主力は、鬨の声を上げて陶軍の背後(紅葉谷側)を駆け下り、これに呼応して別働隊(小早川隊)と宮尾城籠城兵も陶本陣のある塔の岡を駆け上った。塔の岡で戦いが始まったのを見て、沖合に待機していた村上水軍が陶水軍を攻撃して船を焼き払った。前夜の暴風雨で油断していた陶軍は、狭い島内に大軍がひしめいていたことから進退もままならず、総崩れとなった。 (ウィキペディアより)





朝日の中を宮島に向かう。時間は午前8時前。

宮尾城は毛利氏の居城で、以前仕事でよく通ったこのトンネルを出たところに登り口がある。

特に城跡のようなものはない。

各地の山城で見た「堀切」らしき溝がある。

橋を渡って展望台。ここは要害山呼ばれる標高30mの丘である。

要害山から、陶氏の陣があった塔の岡を見る。弥山が仏様の寝姿に似ているのが分かる。

宮尾城の痕跡は見当たらなかったが、唯一仁王門跡の標識があった。

要害山を下りて包ヶ浦に向かう。ほとんどの観光客は厳島神社に向かうので、こちらには人はいない。

冬場で山に食べるものがないのか、いたるところに鹿が現れる。

 包ヶ浦に到着。あの岬の向こうが地御前だから、毛利軍はあそこを回ってこの浜辺に上陸したのか。約450年前の事象を想像しながら歩く。

現在の包ヶ浦は、海水浴やキャンプ地として利用されている。

厳島合戦の説明。

 しばらくキャンプベースとキャビンの敷地を歩く。

舗道の終わったところから山道が始まる。包ヶ浦と紅葉谷をつなぐ包ヶ浦自然遊歩道だが、落ち葉に覆われていて、心もとない。


方向を示す標識があったので間違いない。

戦国時代に遊歩道はなかっただろうから、毛利軍はこの道を歩いたわけではない。武具を装備して、道なき道を登っていったのだろう。

しばらくすると視界が開けてきた。江田島が見える。

おそらく峠を越えるあたりだろう。椅子に腰掛け一休み。

出発地点の包が浦を 見下ろす。

峠を越える。標高190mくらいか。

峠を越えて、視界は厳島神社方面に変わる。フェリーが見える。

下り坂が続く。

包ヶ浦と紅葉谷の中間地点。

さらに下ると、弥山登山口との分岐がある。

博打尾に到着。毛利軍は、ここから紅葉谷に向けて駆け下りていった。

当時はこんな道もなかっただろう。藪や林の中を転げ落ちるように駆け下りていったに違いない。

駆け下りる途中目にしただろう。遠くに厳島神社の大鳥居が見える。

遊歩道の終点に出る。包ヶ浦からここまで、約1時間20分。

紅葉谷を過ぎて、陶氏の勝山城跡に向かう。

大聖院のほうに向かって歩く。

 大聖院の前を曲がり、坂道を登る。

丘の上にある多宝塔。

その近くにある勝山城跡碑。陶氏は当初ここに居城を構えていたが、毛利氏の宮尾城を視野に入れるために、本陣を塔の岡に移した。

塔の岡は五十の塔のあるあたり。

下から見ると、城跡の面影が…

神社の裏を塔の岡に向かう。

マップ上で「塔の岡 (厳島合戦 陶晴賢本陣跡)」と表示されるのはこの上である。

千畳閣は豊国神社の通称であるが、豊臣秀吉の 発願による。厳島の戦いは秀吉以前であるから、ここに陶晴賢本陣があったのだろう。

この石垣はその名残か。

宮尾城のあった要害山を見る。 確かにここからだとよく見える。陶晴賢はここから睨みをきかしたつもりだったのだろう。

千畳閣のとなりに、塔の岡の名の由来となった五重塔がある。

厳島神社を見下ろす。毛利軍がこっちから攻めてくるのは想定外だった。

少しはなれた岡に塔の丘の合戦の説明があった。

五重塔を見上げる。

予定の行程を終えて桟橋に向かう。年末の日曜日、すごい人だ。

帰りのフェリーの船尾から。あの中腹あたりから、毛利軍が攻め降りたのか。

船側から。左が地御前、右が包ヶ浦。夜闇と嵐にまぎれて、軍船が渡っていったのか。

自分の進軍?図。

近いうちにyoutubeでNHK大河ドラマ「毛利元就」を見るつもりだが、厳島の戦いがどのように描かれているか楽しみである。

後日談
自宅近くを散歩中に見かける、廿日市洞雲寺。ここに陶晴賢の墓がある。

境内に入り左に。鳥居の前を通って坂を上ったところ。

近くの桜尾城で毛利による首実検(本人かどうか確かめる)が行われたのち、ここに葬られた。当初は首塚だったが、後に墓に変わった。