③柱島は安芸灘に浮かぶ人口145人(2015年)の島。岩国市に属する。岩国港から高速船で、①黒島②端島を経由して約1時間、直行便なら約40分で到着する。岩国市といっても、山口県の周防大島、広島県の倉橋島、愛媛県の怒和島に近い位置にある。
朝、岩国港まで車で行く。
船は平日は3便、土日は4便。平日だと帰りの便は16:15しかないので、日曜日を選び、14:15の船で帰る予定。
運賃は片道¥1830と、結構な値段である。
7:40の船に乗る。
日曜日とあって、釣り人が多い。
岩国港を出航、岩国の工業地帯が見える。
西には、周防大島。
①黒島に寄港。
船が桟橋に着くとき、繋留用のロープを扱うのは、おばあさんだった。
②端島に寄港。
船が桟橋に着くとき、繋留用のロープを扱うのは、やはり、おばあさんだった。
定刻に柱島に到着。
事前に調べておいた、金蔵山登山道入り口がある、柱島小中学校に向かう。「金蔵山の登山記録」は、H30.6.3の記録と最近のものなので、役立った。
港から少し奥に歩いたところに、案内がある。
島に平地は少なく、すぐ上り坂になる。
一度迷いながらも、目印の柱島小中学校 の裏に到着。
小学校は平成20年、中学校は平成23年から休学中。
草が生えた校庭。学校はかなり高いところにある。
メトロノームやCDがあるから、音楽室か。
給食室。現在、廃校でなく休校 だが、復活するだろうか。ここに生徒一人の最後の運動会の記事があった。
登山道入り口で、地元のおばさんに会う。「いのししがいるから気をつけて」と助言を受ける。
ここから登山道が始まる。金蔵山、標高290m。これまでも何回か登った高さの山。案内によると歩行距離は約1100m。
要所要所に距離の目印がある。
まず竹林を登っていく。
先日の豪雨の爪あとか、もっと古い気もするが、木の下をくぐり進む。
実は、寝不足で調子がよくない。頭がボーっとして、すぐ息切れする。足が痛い。寝転がれそうなところに横になり、しばらく休む。横になって上を撮影したもの。
ようやく半分 。
展望場があるが、疲れと暑いのとで、座ってゆっくり見る余裕もない。
三角地と山頂への分岐点。まず、山頂方向に向かう。
道は、笹に覆われつくしている。この道でいいのかと不安になるが、 スマホで「金蔵山の登山記録」を見て確認する。
海軍の貯水場跡。
同じく、海軍の見張り所跡。
頂上に到着するが、特に目印もない。ここより高いところはないので、ここが頂上だろう。
分岐点まで下りて、三角点に向かう。
ここからの眺めはいい。
金蔵山(きんぞうざん):中世において忽那くつな七島を拠点に瀬戸内海で勢力を誇った忽那水軍の城や太平洋戦争時の海軍の見張所が置かれた場所でもあります。
港のある麓から40分程度で山頂にいくことができ、標高約280メートル附近の展望台からは瀬戸の多島美を望むことができ、空気の澄んだ日は四国まで見ることができます。(「岩国 旅の架け橋」より)
左が、倉橋島、中央が愛媛県の島々、右が周防大島。ここから四国は遠くない。かつては、岩国と松山を結ぶ航路があったようだが、現在は廃止されている。
手前には、無人島の小柱島。
柱島港も見える。
景色を楽しんだ後、下山する。
登山道口まで下りた。現在、10:45。休み休み登ったから、けっこう時間がかかった。
下りたところで、また最初に出会ったおばちゃんに再度出会う。
「いのししが道に穴を掘ってましたよ。」
「ほんとに困るんですよ。」
いのししは葛の根を探して穴を掘るらしい。畑にも来るので、獣害に悩まされるとの事。
来たときとは違う道を、港のほうへ下りる。
初秋とはいえ、まだ暑い中、ご老人が畑仕事にせいを出している。学校は休校になっている。歩いていて、やはり子供には出会わない
港まで下りた。
旅館があるが、釣り宿だろう。
島の東部にある賀茂神社に向かう。
賀茂神社は峠の上にあるので、また上り坂。山登りの後、少しの勾配でもこたえる。
賀茂神社入り口。
階段を登る。
汗を拭きたいので、タオルを水で洗おうと思ったが、手水場の水は出ない。
賀茂神社。裏に水の蛇口があったが、やはり水は出ない。
賀茂神社:集落から少し離れた高台に88柱もの神々が鎮座する賀茂神社。神武天皇と五十鈴姫命を祭神とし、他に金毘羅宮、出雲大神などの神々が祀られており、柱島という名はこの御柱の多さから名付けられたと言われています。毎年行われる秋祭りでは、神輿を近くの八幡宮まで担ぎ、島全体で収穫を感謝します。(「岩国 旅の架け橋」より)
ここで弁当にする。
賀茂神社から、新宮鼻がある海岸まで下る。バイクに乗ったおばあさんに遭遇。
新宮鼻。小島が砂州で繋がっている。水位の跡を見ると、満潮でも道はあるようだ。
砂州を歩きながら、倉橋島を臨む。
奥の角張った岩と、手前の丸っこい岩が対照的。
新宮鼻から、南に砂浜を歩いていく。
途中に、遺跡らしきものがある。
これは、戦時中の桟橋の跡か?
戦艦陸奥英霊之墓。そういえば、今年5月に行った周防大島にも陸奥の記念碑があった。陸奥が沈んだのが、柱島と大島の中間あたり。
戦艦陸奥英霊之墓:日本海軍に所属した戦艦「陸奥」は、昭和18(1943)年6月8日午後12時10分ごろ、柱島南西沖約2キロメートルの地点に停泊していたところ原因不明の爆発が起こり沈没。乗組員1,122名が犠牲となりました。柱島には多くの遺体が流れ着き、陸奥沈没の事実が敵方に知られないよう秘密裏に荼毘に付されました。後に柱島の人の手によって、犠牲者を悼んでこの「戦艦陸奥英霊之墓」が建立されました。(「岩国 旅の架け橋」より)
海岸沿いの道はこのさき行き止まり。現在、12時半。帰りの船の時間14:15までまだずいぶんある。
ここで右折し、港のほうに帰る。
賀茂神社の前。さっきは右側の道を上がってきたが、今度は左に行く。
西栄寺に向かう。そこに柱島出身の赤禰武人という、長州藩士の墓があるという。迷わないように、スマホのマップで経路を表示し確認しながら歩く。
ずっと水不足?だったが、ここにきて自然の水を発見。タオルを浸す。
遠くに、登山道口の目印にした、柱島小中学校が見える。あんなに高いところにあるのか。
ハァーハァー言いながら登った金蔵山。
西栄寺に到着。
この上にお寺と墓地がある。
墓がすぐには見つからず、見回すとトイレを発見。先ほどから、催していた。心配なのは水だが、ずっと歩いてきてトイレらしきものはなかったので、ここでお世話になる。用を済まして… おお 水が流れた。外の蛇口は例によって水が出なかったが、このトイレの水はどこから来るのか。しばし推理するが不明。
墓地の中を巡っていると、赤禰武人の墓があった。赤禰武人という人物、柱島に来る前には知らなかったが、悲しい最期を迎えている。
赤禰武人:周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた(生誕地については異説あり)。15歳の時に妙円寺の僧侶・月性に学び、月性の紹介で浦靱負の郷校である克己堂で学ぶ。安政3年(1856年)、短期間ではあるが吉田松陰の松下村塾に学ぶ。安政4年(1857年)、長州藩重臣浦家の家老・赤禰雅平の養子となり、陪臣ながら武士の身分を手に入れ梅田雲浜の望南塾に入塾。安政の大獄に伴い師・雲浜が捕縛されるに伴い赤禰も捕縛されるが、釈放され帰郷。その後、吉田松陰らに相談し江戸において雲浜の救出を試みるが失敗、藩から謹慎処分を受ける。
文久2年(1862年)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて尊王攘夷活動を行い、御楯組に加盟。 同年12月には 高杉晋作・伊藤俊輔・久坂玄瑞・井上聞多らと共に英国公使館焼き討ちに加わり、文久3年(1863年)5月の下関戦争に参加、同年10月には奇兵隊の第三代総管に就任した。元治元年8月(1864年9月)の第一次長州征伐後、赤禰は藩内の融和を図るが、当時の藩政を主導していた俗論派と正義派諸隊の調停を行った事が同志に二重スパイとして疑われる契機となる。更に、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、幕府の攻囲を前に内戦を行うことを危ぶむ赤禰はこれに反対し高杉と対立する。
元治元年12月(1865年1月)、高杉による功山寺挙兵が成功すると藩内での立場を失い、出奔して上方へ赴く。その後、幕府に捕縛されたが、幕府大目付・永井尚志や新撰組参謀・伊東甲子太郎らは長州藩の鎮撫工作に赤禰を利用することを画策、赤禰は11月に放免され、長州尋問のために下向する永井の随員となった。これも、赤禰が更に疑われる原因となった。幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認識されていた赤禰の言は全く受け入れられなかった。工作は成功せず、生誕地である柱島に潜伏していたところを、12月に長州藩士・槇村半九郎に捕縛される。赤禰は弁明を望むが、取調べは一切行われず、翌年1月、山口の鰐石で処刑された。享年29。 (ウィキペディアより)
港の桟橋の先端に座って過ごす。
NHK「又吉直樹のヘウレーカ!」でやっていたが、鳥は省エネのため、ほとんど飛ばない。そのようだ。ここの鳥たちも、じっとしたまま動かない。
もう一度、先ほど登った金蔵山を臨む。登るときは苦しいが、頂上からの眺望と、下山した後に、遠くから見上げる山の形が、御褒美だ。
廃版の「寺崎商店」。この店がにぎわう時代もあったのだろう。
港の少し先の海岸で時間をつぶす。海はきれいだ。
そろそろ時間になり港に帰り、自販機でコーヒーを買ったら、復活「寺崎商店」。おそらく、港の移動に伴い店も移動したのだろう。
1日、3~4便なので、待合室には常時人はいない。ちょうど係りのおばちゃんが、今日初めて見る子供と一緒にやって来たところ。このおばちゃんが乗船券を売っている。 船の繋留もそうだが、常時いる必要のない係員は、船会社が島の住人に委託しているようだ。
切符売りのおばちゃんと常連のお客さんの話は、いのししの獣害だった。木の根を求めて掘るため、石垣が崩れたりして、深刻なことになっている。
14:15の土日専用便で帰る。
時刻表と1分も違わず、定刻15:14に岩国港に帰着した。
これまで歩いた、他の島同様、過疎化と老齢化を感じた島歩きだったが、柱島から四国があんなに近いのには驚いた。
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