2018年8月29日水曜日

萩(2018. 8.29)


 萩は子供の頃と大人になってから2回来たと記憶しているが、当時は今のように町歩きという考えはなく、ちょっと見であまり覚えていない。なぜか、子供の頃に行った明神池の映像だけが残っている。
萩は、今年明治維新150年で、観光に力を入れているようだが、今回自分は、松陰神社をはじめとする明治維新関連のスポットでなく、 最近世界産業遺産に登録された萩反射炉と「ブラタモリ」で放映された笠山を中心に回ろうと考えている。それでも、明倫館と萩城跡は行きたいので、自転車を借りることにする。このところ自転車に乗りなれて、とくに電動は便利で、歩くには長すぎて時間がかかるが、レンタカーを借りるほどでもない場合、重宝する。

朝ホテルの部屋から。萩市街地と左端が萩城跡がある指月山。

バイキング形式の朝食。今日の町歩きに備えてしっかりいただく。

ネット予約者へのプレゼント「夏みかんグミ」をもらいチェックアウト。まず歩きで、阿武川に沿い南下する。

松陰大橋を渡り、萩市街に入る。

橋の上から、南方向を見る。

萩は、広島と同じく三角州の上にできた町である。ここは、2つの川が分岐する、三角州の三角の頂点。

ここに来た目的は、藍場川といって、風情ある道があると調べていたから。
藍場川:延享元年(1744)、農業用水路程度であったものを川舟が通れるように大きく開削したのが藍場川で、2.6キロメートルにわたり市内を縫うように流れています。
大川(松本川)より水を引いたので、それに対して溝川と呼ばれ、農業用水をはじめ防火用水、川舟による物資の運搬や水害時の水はけに利用されました。
その後、明和年間(1764~71)藩営の藍玉座が設営され、そのため川が藍色に染まり、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになったといわれています。 (「ぶらり萩あるき」より)

川沿いに北に歩く。

津和野ほどではないが、川に鯉が泳いでいる。

川沿いの公園で一休み。朝は涼しかったが、だいぶ汗ばんできた。今日も暑くなりそうだ。

萩橋まで戻る。向こうにホテルが見える。

調べておいたレンタル自転車屋は、ホテルの隣の小さな建物にあったが、ホテルの1階にレンタル屋があるので、ここで借りることにする。ホテル宿泊者はいくらか安くなるらしい。

今日は平坦な道が多いので、電動でなく通常の自転車にする。

旧萩藩校明倫館に着く。

 先に、左側の有備館に入る。
 有備館:旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物です。内部の北側半分は板の間で39畳の剣術場、南側半分は土間で54畳の槍術場、各その西側を藩主の上覧場とし、中間に藩主臨場などの場合に使う控室があります。
有備館は、藩士の練武のほか、他国からの剣槍術の修業者との試合場、すなわち「他国修業者引請剣槍術場」でもありました。土佐の坂本龍馬も来萩しここで試合をしたといわれています。(「ぶらり萩あるき」より)

施設維持のための寄付金箱があったので、¥100入れた。その音を聞いて、観光ボランティアのおじさんがやってきて、有備館のこと明倫館のことを丁寧に語ってくれる。自分も結構詳しいほうなので、いろいろ聞き返すと、乗ってきてどんどん話される。話の区切りが付いたところで、お礼を言って後にした。

明倫館に行く。

後から調べると、旧藩校の木造校舎が2017年3月4日に「萩・明倫学舎」として、萩の観光起点になったそうだ。道理で、自分の記憶にある明倫館とずいぶん違うわけだ。

本館は入場無料。レストラン・喫茶・お土産店などがある。

さっき、有備館のおじさんが語っていた、新旧明倫館の図。人材育成のため新しくした明倫館は格段に広く、それまで上級武士の学び舎だったが、下級武士も入校できるようになた。最近、大河ドラマ「西郷どん」にも登場した、桂小五郎(木戸孝允)・伊藤博文。有名な長州出身の明治維新の人物は、おおくは下級武士の出である。

2号館は有料。¥300。幕末ミュージアムと世界遺産ビジターセンターに分かれている。

幕末ミュージアム。壁に書かれた戊辰戦争の絵巻。

鉄砲や大砲の展示。

世界遺産ビジターセンター。後から行く、萩反射炉についても勉強する。観光ボランティアのおばちゃんが、たたら製鉄のふいごを踏んでみなさいと言ってきた。たたら製鉄は鉄鉱石と炭の混合に火を噴きかけ鉄にする。3日3晩、交代でふいごを踏み続け、火を絶やさないようにする、重労働だ。そのふいごの模型に両足をかけ踏んでみる。重さは実際のものと同じ、確かに重労働だ。正面のモニターに自分が踏んだ力に応じて大きさが変わる、炎が映し出される仕組み。面白かった。ただ、人力の製鉄では量的にも限界があり、何よりも炭を混ぜるので鉄に不純物が含まれる。その点、炭を使わない反射炉は、純度の高い鉄を製造することができる… ここでもおばちゃんが、丁寧に語ってくれた。佐賀藩の設計図の形だけを模写し、内部は試行錯誤の萩の反射炉は失敗し未完成となった。
「薩摩半は、密貿易でお金を持っていたから…」
おばちゃんの語りの中に、薩摩への対抗意識が垣間見られた。

明倫館を後にする。
明倫館 :萩藩校明倫館は、享保3年(1718)に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸(堀内)に建てた藩校です。それから約130年後、嘉永2年(1849)に城下の中心地(現在地)へと移転、規模を拡大しました。
約1万5千坪(約5万㎡)もの敷地内に、宣聖殿と呼ばれた聖廟を中心に、西側に小学舎、手習所などを含めた主として学問習得のための建物、それも漢学中心の初等・高等の教育施設が配置され、東側には槍場、撃剣場、射術場などの武芸修練場、後方には水練池、北方には約3千坪の練兵場が設けられていました。吉田松陰や楫取素彦(小田村伊之助)もここで教鞭をふるいました。
創設より慶応3年(1867)廃館に至るまで、前後約150年の長期にわたって藩校としての教育が行われ、幕末の長州藩の中で大きな役割を果たしました。 (「ぶらり萩あるき」より)

このあたりは、市民センターや萩美術館・萩博物館が並ぶ、観光拠点になっている。交差点で、おばちゃんに美術館への道を聞かれた。地元民ではないので分からないので、スマホのマップで教えてあげた。

萩城跡に行く前に、萩城下町を歩く。

他の観光客も歩いている。コースの一部になっているのだろう。

木戸孝允生家。

伊藤博文と高杉晋作が幼い頃ともに学んだお寺。

古い町並みを城跡に向かう。

入り口に、萩八景遊覧船乗り場。今のところ乗客は見当たらない。

萩城跡に到着。

自転車乗り入れOK。

向こうに指月山が見える。

入場料¥300。

入ってすぐ、毛利氏の菩提寺。

天守閣跡に登る。

石垣の曲線が美しい。

指月山。
指月山:阿武川デルタの北西端に突き出た標高143mの指月山。“天然の要塞”と呼ばれるこの山には萩城の詰丸が築かれ、城内と海を監視していました。 (「ぶらり萩あるき」より)

先ほど通ってきた萩市街方向。

公園の奥に、指月山への登山道がある。時間的にも、なによりも体力的にも今日はパス。

公園の置くから、海辺の展望台に出る。後ほど行く笠山方面。

南に目を向けると、白砂のきれいな菊ヶ浜。

おお、先ほどは乗客のなかった遊覧船がやってきた。お客があって、よかった、よかった。(自分が行く先々で、暇な乗り物が多いので、妙に心配してしまう。)しばらく見ていたが、外海への出口で引き返してきた。

城跡公園を出て昼ごはん。

てんぷらうどんを注文したかったが、本日揚げ物ができないとのこと。かやくうどんにする。食べた後、休憩・昼からの行き先の位置確認。

萩反射炉に行く前に、先ほど城跡の展望台から見えた菊ヶ浜に立ち寄る。

砂浜の向こうに指月山。

向こうに見えるのは笠山か。

菊ヶ浜のパノラマ。

今日はこの川を何回も渡る。向こうに見えるのがホテル。(出発地点)

萩反射炉は、市外から少し離れたところにある。急な勾配はないが、ところどころ緩やかな坂になると、踏む足に力がかかる。世界遺産・萩反射炉跡に到着。コンビにもあり、駐車場は広い。なぜか、宝くじ売り場もある。

10m登ったところに反射炉がある。ここにも観光ボランティアが。多くは時間のあるシニアが多く、話し出すと長くなるので、今日は素通り。

最近、世界遺産になったからか、ブラタモリで紹介されたからか、観光客が多い。

確かに、これでは製鉄できそうもない。ただ、製鉄を試みた行為自体が産業遺産になったとか。
 萩反射炉跡:反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられました。萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから、約7割程度の規模のものになります。また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験炉が操業されたということだけであることから、萩反射炉はこのスケッチをもとに設計・築造された試験炉であると考えられています。(「ぶらり萩あるき」より)

次に少し離れたところにある、恵美須ヶ鼻造船所跡に行く。 現在も発掘が続いている。
恵美須ヶ鼻造船所跡: 嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請しました。安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水します。現在も当時の規模の大きな防波堤が残っています。(「ぶらり萩あるき」より)

 堤防の先に、先ほど反射炉にいた男性2人連れがいる。自分と同じコースをたどっている。

堤防から海を見る。

堤防の先端で。

ここにも観光ボランティアが。萩市の観光に対する意気込みが伺われるが、自分を含め、誰も利用しようとしていない。中に座っているおじさんかおにいさん、退屈だろうな。今、尋ねればとうとうとしゃべるだろうな。

世界遺産関連の見物を終え、今日のスポットのメインのひとつである笠山に向かう。

笠山の麓にある明神池に着く。
明神池:笠山の東麓にあり、その昔笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、埋め残されてできた池が明神池です。大池、中の池、奥の池の三部分からなり、池は溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、潮の干満が見られます。(「ぶらり萩あるき」より)

色は黒いが鯉だろう。

石橋を渡り奥の池に行く。

奥の池から、明神池を見る。

暑いのでぜひとも来たかった風穴。

ひんやりとして涼しい。地下に年中同じ温度でためられた空気が、夏は涼しく冬は暖かく感じさせる仕組み。


温度計は19℃。外は、30℃以上だから、涼しいわけだ。

風穴で涼を取ったあと、明神池に戻る。昨日の犬に続き、猫も夏ばてか。近寄っても逃げない。

さて、本日の萩あるきの最後に、笠山に歩いて登る。

笠山山頂まで1.3km。

笠山山頂まで500m。この暑さ、あと500mでもしんどい。

汗を拭き拭き山頂駐車場に到着。自分のように歩いて登る人はいない。

展望台までもう少し階段を登る。

展望台広場に到着。

笠山山頂。
笠山:笠山は、北長門海岸国定公園の中心に位置し、山頂に直径30m・深さ30mの小噴火口を持つ、標高112mの小さな火山です。約1万年前に噴火し、安山岩の溶岩台地と、空中高く噴き上げられたマグマのしぶき(スコリア)が降り積もってできた丘(スコリア丘)でできており、その形が市女笠に似ているため、「笠山」と呼ばれるようになりました。(「ぶらり萩あるき」より)

火口跡に下りる。

今日の最終地、笠山展望台に上がる。

今回、青海島の延長での萩訪問のきっかけもになった、ブラタモリのポスター。

タモリが紹介していた平坦な島々。羽島と肥島。粘土の低いさらっとした溶岩が固まってできた。

羽島にズームイン。

展望台から萩市方面。

パノラマを撮ろうとスマホを回転させたら、入ってしまうと遠慮されてたカップル。ちょっとだけ入ってしまった。これがきっかけで少し話した。涼しい風穴を訪問することを勧めた。

笠山から降りる途中にある「柚子屋本舗」で少し休む。

2日間の旅を振り返りながら、夏みかんジュースを飲む。

今日の訪問予定、実はブラタモリで寄っていた場所が笠山の近くにあるのだが、特に見たいものがあるわけではない。現在午後3時。帰りは萩から新山口まで「スーパー萩」という高速バスを考えている。そのバスが東萩駅16:15発である。時間もあまりないので、笠山・明神池を後にし、東萩駅まで戻ることにする。

笠山から本土に続く途中の魚屋の店頭で回っていた。

 15:35、自転車を返す。ホテル宿泊者特別料金で、¥800だった。

風のない中、ひたすらバスを待つ。

定刻どおりスーパー萩がやって来た。というより、バスはずっと駅前で待機していたのだが… エンジンはかけていたから、早めに乗せてもらえると涼しいのだが。

派手なバスのボディー塗装。新山口駅北口まで約1時間15分、¥1550。美祢線で戻ることを思えば早くて安い。萩だけなら日帰りでも来れそうだ。

先月の、牛窓瀬戸大橋同様、暑い中、走り回った1泊2日の旅だった。