2019年4月30日火曜日

奈良① (2019. 4.30)

4月30日と5月1日が仕事休みなので、先月から天候の都合で、延び延びになっていた京都+高取城の1泊旅行を、当初は計画していた。GW期間なのでホテルはいっぱい。ネットカフェか24時間営業のSPAに泊まろうと思っていた。しかし残念ながら、今回も両日雨模様。まち歩きなら少々の雨でもかまわないが、高取城は山を歩くので、今回も延期することにしたが、やはり奈良方面には行きたいので、日帰りでお寺めぐりをすることにした。
回るお寺は、薬師寺・唐招提寺・興福寺・元興寺、最後に纒向遺跡の箸墓古墳。

新大阪~(地下鉄御堂筋線)~大阪難波~(近鉄奈良線)~大和西大寺~(近鉄橿原線)~西ノ京、という経路で、9:15に西ノ京駅に着く。

最初に足慣らしもかねて、薬師寺とは反対の大池を巡る。ネットで見た、大池から見る薬師寺の風景が気に入ったからである。

しかし、妙な建物が見える。確か、西塔と東塔の2つがあったと思うが…

大池を巡り薬師寺に到着。左が西塔、右がリニューアル中の東棟。先ほど大池から見た奇妙な建物はリニューアル中の東棟だった。
薬師寺:薬師寺は天武天皇9年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気快復を祈り発願された1300年の歴史を持つ寺です。(奈良薬師寺公式サイトより)

参拝料を払って入る。ほとんどのお寺は有料である。多くの寺院の火災による消失による建造物の再建や、施設維持費用のためと考えると納得できる。

金堂。

 堂内は撮影禁止。外から薬師如来像を写す。

大池から遠く見た西塔(さいとう) 。

 東塔はリニューアル中だが、この期間は中を公開している。たくさんの人が入場を待っている。

金堂がある白鳳伽藍エリアの奥にある、玄奘三蔵院伽藍に向かう。

 玄奘三蔵院伽藍。

中には西遊記で有名な玄奘の像が安置されている。
法相宗は南都六宗のひとつに数えられる、日本における現存最古の宗派です。
この宗派の教えは、5世紀ごろにインドに現れた、無著(阿僧伽)菩薩・世親(伐蘇畔度)菩薩によって大成されました。7世紀初めに玄奘三蔵が求法の旅の中で、インド・ナーランダ寺院にて教義を修め、帰国後様々な経論を翻訳しました。
弟子の慈恩大師に教義を託し、慈恩大師は法相宗を開きました。法相宗では慈恩大師を開祖、その師である玄奘三蔵を鼻祖として仰いでいます。(奈良薬師寺公式サイトより)


薬師寺を出て唐招提寺に向かう。

唐招提寺は、薬師寺から北に10分くらい歩いたところにある。

写真でよく見る唐招提寺金堂。
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。(唐招提寺HPより)

例によって堂内は撮影できないので、金堂の前を撮影。

金堂の裏にある、講堂と鼓楼。境内を一周する。朱色主体の薬師寺に比べ、モノトーンの境内。

さらに奥に、鑑真大和上御身代わり像が安置されている開山堂。

期間限定で「瓊花」が公開されているという。

今回は、各寺院のことは詳しく調べてこなかった。大雑把に見たいポイントをメモしてきただけだったので、「瓊花」が何かも知らない。

鑑真和上の故郷・揚州から贈られた、初夏に咲く花のことらしい。日本には自生しない。

 白い花が美しい。
 瓊花:鑑真大和上の故郷である中国揚州の花で、隋の皇帝・煬帝が大変気に入って、門外不出となった、ガクアジサイに似た白い花です。1963年、和上遷化1200年に、中国仏教会から唐招提寺に贈られました。四月下旬から五月上旬にかけて、御影堂供華園でその瓊花の特別公開が行われています。(travel.jpより)

 薬師寺のにぎわいと対照的に静謐なたたずまい。

藤も咲いている。昨年同時期に行った九州八幡の河内藤園を思い出す。思えば、この1年でたくさんの旅行をしたものだ。

喫煙所があったので、境内を見ながら一服。

再び南大門を通り、唐招提寺を後にする。

西ノ京から、次の目的地平城京跡に向かう。

大和西大寺で下車。南口に出る。

線路に沿って歩くが、平常京跡はこの線路の向こう側にある。

歩くうちに気づいたが、大和西大寺は近鉄奈良線と橿原線が分岐するところで、電車の車庫もあり、容易に踏切が作れないところである。渡ろうにも自動車専用道路で、歩いてわたることができない。思案に暮れて、うろうろしていると、やっと歩道橋を発見。

下調べをして来ず、平城京朱雀門に行くため安易に南に来てしまって、大回りしたことになった。マップで経路検索すると、北上するよう案内されたが、そういうことだったのかと後から気づいた。青色の経路を辿れば平城京跡はそう遠くはなかった。おかげで、右足首が痛くなり、帰るまで痛みが尾を引いた。

なんとか平城京跡に到着。

復元された遣唐使船には乗ることができる。

今日唯一の無料施設である。

遣唐使船の上から。一帯は国営の平城宮跡歴史公園になっている。
平城京:今から1300年ほど前に、現在の奈良市につくられた都です。平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれています。
平城京ができたのは西暦710年。元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都をつくりました。平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐(中国)の長安という都でした。
東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形の東側に、東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約2,500ヘクタール。都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびるメインストリート・朱雀大路は幅約74m。道路というより広場と呼びたくなる広さです。この朱雀大路の西側を右京、東側を左京といいます。碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていたといわれています。(平常宮跡歴史公園HPより)


公園にはカフェやレストランもある。

朱雀門広場。

復元された朱雀門。

朱雀門を通る。

門を抜けると広い敷地が広がっている。

東に見えるのが、1泊2日の旅で訪れるつもりだった若草山。

近鉄奈良線の踏切を渡る。踏切は夕方には閉鎖される。

 踏切を渡って… 朱雀門の前を電車が走る。

この高台も宮跡だろう。

手前は復元工事中の建物。

大極殿正面。

大極殿を横から。

大極殿の裏の道を駅に向かう。

大和西大寺駅北口。来た時、こちらに出れば近かった。

華やかなラッピング電車で奈良に向かう。

近鉄奈良駅に到着。駅前には、僧侶の彫像と、托鉢するお坊さん。さすが奈良の都。

商店街を通る。GWに元号移行が重なったこともあるのだろう、大賑わい。どこも人が多いだろうから、やはり日帰りの旅にして結果的に正解だった。

猿沢の池に向かう。
 猿沢の池。

池の向こうに興福寺五重塔。最初に猿沢の池に来たのは、これが見たかったからだ。

池周辺のベンチにはたくさんの人が休んでいる。多くは外国人。

衣掛け柳。帝の寵愛を受けられなくなった采女が悲しみのあまり池に身を投げたという「采女伝説」による。

階段を上り興福寺に向かう。

興福寺に着く。
 法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたのです。(興福寺HPより)

五重塔。

東金堂。
 

東金堂と国宝館の共通入場件を買う。それぞれに有名な仏像が安置されている。

東金堂の向こうに五重塔。

国宝館に入る。興福寺には国宝の約3分の1が所蔵されている。

実物の阿修羅像を見る。(撮影禁止なので画像はネットから)

仏像鑑賞を終えて中金堂に行く。御朱印だろうか、多くの人が並んでいる。

入場料を払い、中金堂を正面から。

奥に見えるのは四天王像か。

中金堂の舞台から、南円堂。

中金堂の舞台から、五重塔と東金堂のツーショット

中金堂はこれまでに7回焼失し、8回目の再建が昨年終わったばかり。つい最近、NHK「歴史ヒストリア」でみた。

中金堂を後にし、南円堂の前を通る。

階段を下る。下は猿沢の池。

階段の途中、少しそれると三重塔。こちらはひっそりしている。人影はない。

池のベンチで休んだ後、興福寺・猿沢の池を後にする。

時間があれば東大寺もと思っていたが、今日の混雑と足の具合では無理なようだ。予定しているもう一つの寺院、元興寺(がんごうじ)に向かう。

興福寺から歩いて10分くらい。元興寺東門に到着。
 日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教最初の地)です。
 (元興寺公式HPより)

 極楽堂(本堂)

禅室の横。

歩いた先から、禅室。

石仏の道。

五輪塔の道。

宝物館の前に座り、元興寺で見たかった屋根瓦を眺める。

古寺のたたずまいを味わい元興寺を出る。

出口に、散った八重桜の花びらの絨毯。

元興寺からJR奈良駅に向かう。通りの間に見えるのが興福寺五重塔。

JR奈良駅に到着。後で調べたら、近鉄奈良駅からJR奈良駅へはバスが頻繁に走っているようだ。

万葉まほろば線(JR桜井線)に乗る。

巻向駅で降りる。

最古の前方後円墳であり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳が主な目的である。邪馬台国の場所は九州説畿内説の決着はついていないが、纏向遺跡がある桜井市は、当然畿内説である。

このマップを印刷携帯してきた。

箸墓古墳に行く前に、他の古墳を見るため、箸墓古墳と反対側に歩く。いちめんのレンゲソウ。

垂仁天皇宮跡。
垂仁天皇:日本の第11代天皇。歴史的事実と認められる記紀伝承は少ないが、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろと推定される。(ウィキペディアより)

携帯したマップを見ながら歩くが分かりづらい。 とりあえずの方向で向こうの小山が古墳に見える。

おそらく景行天皇陵。

やはりそうだ。「立ち入り禁止 宮内庁」。
景行天皇:日本の第12代天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父。実在したとすれば4世紀前半に在位したと推定される。(ウィキペディアより 

古墳の後円部にあたるところ。個の向こうには、崇神天皇陵があるらしが、やはり立ち入り禁止だろうし、今日は足も委託歩く元気がない。

マップの指示通りに右折する。

実在の天皇かどうかは別にして、大きな古墳を作る権力がこの地にあったことは確かだ。小高い山々に囲まれた盆地に、大和政権発祥のイメージを膨らませる。

マップにあった額田王の歌碑。

三輪山の絶景ポイントとある。三輪山、標高467.1m。山自体が信仰の対象であった。

自分がマップを見ながら行く先を思案していると、トラックに乗ったおじさんが話しかけてきて道を示してくれた。

遠くから、景行天皇陵を眺める。

うろうろ歩いていたら、結局最初に地点に戻った。

箸墓古墳に向かう。歩道橋の上から。確かに古墳の形に見える。

近くに行くと小さな山だが…

 周囲を歩けないか、畑の横をたどって行く。

行き止まり。この池は日本100池の一つになってるそうだ。

引き返し、時計回りの方向に古墳をめぐる。

やはり「立ち入り禁止 宮内庁」。

めぐり終わる頃、遠くに鳥居らしきものが見えた。

また畑の横を歩いて行く。去年行った仁徳天皇の古墳にもあったものと同じ様式。

古墳を一周する。ドライブインのパーキングだろうか。「ひみこの庭 古墳 P」の看板。

箸墓古墳の全体。

上空から見るとまぎれもなく、前方後円墳(ネット画像)。自分は左から右に歩いて回ったことになる。この画像を知って歩けば、自分がどこを歩いているのか、歩きながら感じることができただろう。あの鳥居は、前方部になるわけだ。

三輪山と古墳のツーショット。

巻向駅に戻る。

さて、今日の風呂は、前回の吉野の旅で行けなかった、「あすかの湯」するつもりだったが、時間と足の痛みで、どうしようかと迷っていた。新大阪の広島行き新幹線は夜10時台まである。現在夕方5時半なので、時間的には十分間に合う。意を決して(?)行くことにした。

 JR桜井駅で、近鉄大阪線に乗り換える。

 耳成(みみなし)駅で下車。

歩いて10分。あすかの湯。

近くに藤原京跡があるが、さすがに今日はパス。

風呂上りに、ホルモン焼うどんを注文する。

新大阪駅に向かうため、耳成駅に戻る。時間は19:42。

次の駅、大和八木で特急上本町行に乗り換える。

近鉄大阪線の終点は上本町で、大阪難波までは行かない。(自分の記憶では、以前は近鉄なんばが駅名だったが、近鉄と阪神電車が難波で連結し、相互乗り入れしているので、「大阪難波」とよぶようだ。)乗り換えに便利な鶴橋で乗り換え、難波まで。地下鉄で新大阪に行き、21:26の新幹線指定席で帰る。自宅に着いたのは、平成から令和に変わる10分前だった。