2018年12月24日月曜日

岡山後楽園 (2018.12.24)

岡山市はこれまで中継地点として、交通の乗換えや宿泊で何度か来ているが、岡山市自体は歩いたことがない。今回街歩きとして、後楽園他をまわることにした。
岡山市:後楽園・岡山城・夢二郷土美術館→倉敷:水島鉄道・倉敷美観地区のコースで、最後に倉敷の「くらの湯」で風呂。

新幹線で岡山まで行き、路面電車の城下で下車。

 遠く岡山城が見える。

向こうに見える橋まで、旭川沿いに歩く。

 鶴見橋を渡る。

岡山後楽園に到着。

入場料は、通常は\400だが、シルバー適用で¥140。
岡山後楽園:岡山市北区後楽園にある日本庭園(大名庭園)で、日本三名園(他に水戸・偕楽園、金沢・兼六園)のひとつである。江戸時代初期に岡山藩主・池田綱政によって造営された、元禄文化を代表する庭園で、国の特別名勝に指定されている。(ウィキペディアより)
今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園です。綱政の時代には、藩主の居間延養亭や園内に点在する建物の座敷から眺望を楽しむという要素の強い庭でした。綱政の子継政は能舞台周辺の建物を大きく改築し、園内中央に唯心山を築き、そのふもとに水路を巡らせ、沢の池と廉池軒の池を結ぶひょうたん池を掘らせました。こうした改変で庭を巡り歩いても楽しい回遊性が備わってきました。継政の孫治政は倹約のため、田畑の耕作に当たっていた人々をやめさせ、一時的に芝生の庭園となりますが、その後すぐに園内東の大半は田畑へと戻ります。現在の井田[せいでん]はその名残です。(岡山後楽園公式サイトより)

入ってすぐ、水路沿いに歩く。

右手には芝の広場が広がる。

鶴鳴館。園内ではタンチョウヅルが飼育されていて、遠くで鳴き声がする。日時を指定して、檻から出して散策時間が設けられている。

職人さんが東屋を手入れしている。

 沢の池の周りを歩く。

橋が架かっているのは、中の島。

橋の袂を過ぎる。

沢の池を一周。
 中の島の向かいには、井田(せいでん)が広がる。

一周し終わったところに慈眼堂がある。
 境内には、36に割って運び復元した花崗岩の烏帽子岩がある。

慈眼堂の前から、沢の池、その向こうに唯心山を見る。

茶畑。

茶畑沿いに歩く。

林の道を唯心山に向かう。

唯心山。高さ6m。
 

唯心山に登る。

唯心山の上から、沢の池を見下ろす。

唯心山の反対側に下りて、茶屋で休憩。

抹茶セット、吉備団子付き。

南門よりいったん外に出て岡山城に向かう。鶴見橋を渡る。

岡山城北側。

廊下門から入る。

右手にそびえる石垣。

城内は広場になっていが、白線で区分けされている。それぞれに、「膳立の間」など、そこに何があったのか表示されている。

中央に下に降りる階段がある。

現在の城は、戦国時代の宇喜多氏の城を埋めた後に建造されている。

掘り起こされた、初代の城の石垣が展示してある。石組みが素朴である。

不明(あかず)の門をくぐり、天守閣に向かう。

天守閣には黒漆喰が塗られ、別名烏城(うじょう)と呼ばれる。
岡山城:天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した岡山城。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれています。秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っています。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で城主よりも長い期間の余生を過ごしました。
秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、それまでの西側の外堀の外側に城域を拡張して新たに外堀を設け、その外に寺町を配置しました。外堀の掘削は二十日間の突貫工事であったために、「二十日堀」と呼ばれていました。
秀秋の夭折(ようせつ)の後は、幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、池田家を藩主として明治維新に至りました。また藩政が安定期に入った17世紀末には、旭川を隔てて北側に藩主が憩と趣を楽しむ庭として広大な「後楽園」が作られました。(おかやま観光コンベンション協会HPより)

天守閣内は6階建である。各階で、城の歴史を読みながら、最上階に上がる。

天守閣から後楽園を臨む。

天守閣で岡山城の歴史を知るが、城自体の歴史よりも、変遷した城主の生き様に興味を持った。特に、初代城主、宇喜多秀家は関が原の戦いで西軍に組し破れ、各地を逃げ回ったのち、最後には八丈島に流された。流刑地で約50年、極貧の暮らしを生き抜き、83歳で他界する。その生み沈みの多い人生に胸を打たれる。2代目城主の小早川秀秋は関が原の戦いで東軍に寝返り、勝利に導いたキーパーソンだが、21歳で夭折する。秀秋の裏切りによって討ち死した大谷吉継の祟りによるものとする逸話も残されている。

さて、岡山城を含む岡山市一帯は、かつては海の中だった。開拓以前の地図。倉敷もまだ存在しなかった。吉備の国の中心が総社であったのもうなずける。

江戸時代初期、岡山駅や倉敷駅周辺が陸地になっている。かつての海の名残で、児島・早島・水島・連島など、地名に島がつくものが多い。
 (地図はこのページを参照)

もう一度鶴見橋を渡り、後楽園に戻る。

聞こえるのは韓国語。外国人に人気のある観光地である。

南門から再入園。最初に購入したチケット提示で再入園できる。

 竹林の脇を通り…

赤い椿を眺めながら…

二色が岡の林を通る。

前方に見えるのは、左・能舞台、右・延養亭。木橋を渡る。

池の中、ここにも分割・復元方式の花崗岩がある。

後楽園を出て、蓬莱橋を渡る。

橋を渡ったところに、夢二郷土美術館がある。

入館料¥800と高めだが、夢二の作品・資料が豊富に展示してある。

後楽園で撮影された夢二の写真。

黒猫の「黒の助」。ただいまおやすみ中。
 二郷土美術館本館にある中庭のお庭番となった、夢二の絵から飛び出たような肉球もまっ黒の福猫の黒ねこ。黑の助は、2016年、夢二の命日である9月1日の少し前、道路で轢かれそうなところを美術館員に救出されて、夢二郷土美術館の中庭にやってきました。9月16日の夢二の生誕日に、館長が美術館に迎えることを決め、12月24日(奇遇にも初代館長松田基の命日)正式に夢二郷土美術館のお庭番に就任しました。気まぐれに出勤していますが、出勤時には中庭の見回りや、お客様へご挨拶をしています。(美術館のHPより)

美術館をいったん出たところにあるカフェ「art café 夢二」。

川沿いに立つ、夢二作詞「宵待草」の歌碑。
待てど暮らせど来ぬ人を
宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬそうな

路面電車で岡山駅まで戻ろうと思っていたが、ちょうど後楽園バスが止まっていたので乗る。


さて、次は水島臨海鉄道に乗るため、倉敷に向かう。倉敷は10年くらい前に美観地区を訪れているので、今日はついでといった感じ。

ちょうど昼時なので、駅となりの天満屋6Fで昼ごはんを食べる。

 昼食を終え、水島臨海鉄道・倉敷駅に向かう。水島臨海鉄道は倉敷駅と三菱自工駅の間を走る、気動車の単線である。

 12:00発の電車。乗客もそこそこいるが、収入の大半は貨物輸送によるものらしい。

 浦田駅で降りる。実は、これといった観光地もないので、倉敷観光WEBで探して、ひねり出したもの。候補として、薄田泣菫生家・箆取神社・水島商店街。浦田駅で降りて歩き、水島駅まで行き、倉敷に戻るコース。

水島臨海鉄道、水島方向。

マップを頼りに薄田泣菫生家にたどり着くが、門は閉まっている。訪れる人もいないので閉ざされているのか。

ただ、周辺にはちゃんと案内があった。特に見たいわけでもないのでパスする。
薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年 - 1945年):日本の詩人・随筆家。『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。 (ウィキペディアより)

マップを頼りに神社入口(車道)にたどり着く。かなり歩いた。

しばらく坂を登る。

歩道を合流する。どうやら、歩行者用の石段があったようだ。


今年10月に行った吉備津神社を思わせる回廊。

回廊を歩く。

出たところに本殿。

すでに来年の干支・猪が飾ってある。

絵馬殿から水島工業地帯を眺める。

帰りは石段を降りる。

参道入口。

左手に神社を見ながら、ひたすら水島商店街に向かって歩く。

水島商店街は、水島臨海鉄道沿いに栄~常盤~水島と続く商店街だが… 閑散としていて、抽選会のお知らせアナウンスだけが元気いい。

栄地区の抽選会場。

続いて常盤地区。同じく、人通りはない。

常盤地区の 抽選会場。閉まっている店ばかりなのに、抽選券はどのようにして集めるのだろうか。

水島駅近く、ラウンジから、クリスマスソングの定番、山下達郎の「クリスマスイブ」が流れている。お客はいるようだ。

ただただ歩いて、水島駅に到着。

汽車はちょうど出たところ。次の汽車まで約40分。

iPodで音楽を聴きながらホームで待つ。

倉敷に戻る。

よく歩いた。

倉敷に戻り美観地区まで歩く。閑散とした水島商店街と対照的に、夕方になってもにぎわっている。

小腹がすいたので、金賞コロッケを一つ食べる。

大原美術館。10年前の訪問時には寄っている。

美観地区を散策。

 橋の上から南方向。

川舟流しの船が見える。

商店街は大にぎわい。

船頭さんたちがお客を待ちながら談笑している。

美観地区はここまでにして、 前回は訪れていない阿智神社に向かう。

こちら方面は人も少ない。

阿智神社入口。

先ほどかなり歩いて、足がこなれているのか、階段をらくらく登れる。

阿智神社拝殿。

舞台から美観地区を見下ろす。

阿智神社本殿。

町並みを見ながら階段を下りる。

下りたところにある常夜灯。常夜灯の多くは灯台の役目を果たしていたので、かつてはここらも海だったのだろう。

美観地区から、今日の最後の目的地「くらの湯」に向かう。

美観地区の順路。

くらの湯に到着。入浴料\750。

すでに夕方6時過ぎ。食堂で夕食をとる 。

風呂で小1時間過ごし、倉敷駅に歩いて戻ったときは、午後7時前だった。在来線で岡山まで戻り新幹線で帰る。

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