2018年9月24日月曜日

吉田郡山城跡 (2018.9.24)

今日は、毛利元就の郡山城跡に登る。登山の後、神楽門前湯治村で温泉に入り、帰りに土師ダムに寄って帰るコース。
高速で、安芸高田まで行く。登山の前に、駐車場にもなる、安芸高田市歴史民俗博物館に寄って、少し勉強したいが、開館9時には時間があるので、かつてテーマパークのニュージーランド村があった場所まで行ってみる。

ニュージーランド村は2008年に閉園し、現在は「ウエストニュージーランド村ソーラーパーク」として太陽光発電の施設になっている。入り口は閉鎖されていて、中に入ることはできなかった。実は、20年位前に一度、現役のニュージーランド村に来たことがある。 日本で始めて発売されたデジタルカメラ、カシオのQV10で写真を撮ったのを覚えている。それまで使い捨てカメラを使用していたが、現像不要・撮ってすぐに映像を見ることができるデジカメの便利さに感動し、これは必ず流行ると思った。予想通り、スマホが普及するまではデジカメ全盛の時代が続いた。当時を思うとなんとも寂しい風景だ。
ちなみに、山口県の美祢にもニュージーランド村があったようだ。一時ブームだったのだろうか。ただ、ここも広島同様2005年に閉園している。

 安芸高田市歴史民俗博物館に到着。

入場料は¥300。毛利氏と郡山城の他、安芸高田の歴史に関する資料が展示してある。 主に毛利氏について見て回る。
鎌倉時代に元就の先祖が、ここ安芸高田の吉田にやってきた。元就の先代までは、山の東部にある小山に城を構えていたが、元就の時代、山全体を開削し山城とした。元就の長男、隆元は若くして急逝し、その子輝元(元就の孫)が家督を継ぐが、元就はその後見人として采配を振るう。輝元の時代、一時は中国全土を支配下に置くが、西軍の総大将として戦った関が原の戦い敗北し、徳川幕府により周防・長門に減封された。輝元は萩の指月城でなくなった。

これから登る郡山城跡のジオラマ。 戦国時代、城と言えば山城であった。山の地形を生かし、山そのものを城とした。

 さて、城跡登山開始。

歴史民俗資料館で無料配布されていた、パンフレットを携帯する。

出発地に建つ元就の彫像。

のどかな風景の緩やかな坂道を登っていく。 入り口一帯は公園になっている。

少し登った ところから、吉田の町を見下ろす。中央の赤い看板は、ゆめタウン吉田。

本道から少しそれたところに、元就の子・隆元の墓がある。

本道に戻り、元就の墓に上る。

このあたりはまだ舗装された遊歩道。

元就の墓に到着。

1571年6月14日、吉田郡山城において死去。

墓所の横から、山城の頂上・本丸まで登る道が続く。ここからが、登山と言える。

しばらく遊歩道が続いた後…

道は林の中に続く。

時おり足場の悪い真砂土の上り坂を歩いて…

本丸へ530m、中間地点に着く。

椅子で小休止。

先ほど見下ろした吉田の町を望む。

展望地を過ぎた後は、しばらく平坦な道が続く。

本丸へ350m。ここから、また上り坂が続く。先日登った柱島の金蔵山のときに比べると、今日は調子がいい。

本丸まであと100m。

ここに井戸の跡がある。

この上に二の丸と本丸がある。

まず二の丸跡。

椅子に横になり休む。

さらに高いところに本丸。

本丸跡。元就の時代に、ここに城の本拠地が移された。ここを拠点に、出雲尼子氏との郡山合戦、山口の陶氏を滅ぼした厳島合戦を経て頭角を現し、一地方の国人から中国地方を支配する大名へと上り詰める。

本丸跡から下を見下ろす。本丸を中心として、山全体に250の曲輪があり、まさに山全体が要塞と化していた。
曲輪(くるわ):城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。(ウィキペディアより)

本丸跡で、戦国時代に思いをはせた後、三の丸跡に下りる。

三の丸石垣跡。

輝元の代になって、毛利氏の本拠地は新た築城された広島城に移ったが、郡山城はその後も、安芸国北部に位置する重要拠点として残った。しかし、江戸時代になり、一国一城の原則により、余計な城は取り壊されることとなり、郡山城も壊された。散乱する石はその石垣の名残。破壊の様子を残すため、片付けないでそのままにしてある。

三の丸跡から下に下りる。携帯したパンフレットで位置を確認する、これが道なのかよく分からないでいる。

満願寺跡という広間に出た。

ここから、麓の郡山公園に下りる。

途中、尾崎丸堀切がある。

 堀切跡。
堀切:曲輪を区画したり分断するため、峰や尾根を堀で切った山城特有の防御手段。これを設けることにより尾根筋からの連続性を意図的になくすことができ、敵の侵入を阻むことができる 。(「城址の用語解説」より)

道は急な下り坂。ということは急な上り坂。とちゅう今日初めて、自分以外の登山者に出会った。中年の男女、挨拶したが無口であった。この登り坂はかなりきつかったのだろう。

旧本城に行く分岐点に差し掛かる。旧本城は元就の先代まで、城の中心地だったところ。ここから麓までは下り坂だけだし、今のところ足の痛みもなく余力もあるので、頑張って本城まで行くことにする。

途中、尾崎丸からの合流地点がある。

道はアップダウンを繰り返す。

堀切を越えると…

旧本城の本丸への矢印。ここを登れと言うのか。他に登り口も見当たらず、木につかまりながら、ほぼ崖に近い坂を登る。

旧本城跡。

町を見下ろすが、木々に隠れてよく見えない。

跡地を巡ると、下に降りる道らしきものがあった。ここから登れば少し楽だったのか。

本道に戻り、麓に向かう。

公園の少し上にある展望台。

展望台からの眺め。

郡山公園に向かって下りる。

公園が見えたきた。

郡山公園は毛利時代のお寺の跡地。

公園から、出発地に戻る途中、清神社(すがじんじゃ)。
清神社:郡山山麓にあり、郡山築城以前から祇園社として存在していました。正中2(1325)年以後の棟札が完存し、社宝も多くあります。ことに郡山の鎮守社として戦国時代には毛利氏の祈願所として尊崇され、社領があり、江戸時代にも蔵米3石余の寄附がありました。現在の社殿は元禄7(1694)年建立のもので、境内にそびえる老杉は樹齢1000年以上ともいわれています。(「安芸高田市観光ナビ」より)

樹齢1000年以上の大木。

杉の木はもともと6本あったが、1本だけ1999年の台風で倒れてしまった。

 倒れた杉の木の跡を示すように並んだベンチ。

杉は本殿の前に倒れ、その倒れ方が不思議な現象とされ、本殿を守った「身代わり杉」と呼ばれ、切り出された根元の一部は「神木」として安置されている。

清神社から戻る途中、彼岸花を見つける。そういえば今日は彼岸の日の振り替え休日だった。ちょうど去年の今頃も、線路脇に咲く彼岸花を見たのを思い出す。

最後に、元就といえば「三本の矢の教え」。その碑があるという。「こちらからお入りください。通り抜けできます」を書いてあるが、扉は閉まっている。

しかたなく、金網柵の脇をすり抜け中に入る。「三矢の訓」は安芸高田青少年の家の施設内にある。

 「三矢の訓」の碑。広島のサッカーチーム、サンフレッチェは サン(「三」:日本語)+フレッチェ(「矢」:イタリヤ語)の造語である。
 三矢の訓:元就が、毛利家を末永く守り立てていくように、小早川氏の養子となった小早川隆景、同じく吉川氏の養子となった吉川元春に書いたもの。

来た道を駐車場まで戻る。

休憩場で一服し、次の目的地に向かう。およそ2時間余りの山歩きであった。

吉田から車で約20分。神楽門前湯治村がある。施設は小高い丘の上にある。

彼岸の3連休とあって、駐車場に車は多い。神楽門前湯治村の中に入る
神楽門前湯治村:安芸高田市内北部、美土里町の小さな山の上にある湯治村です。 天然温泉や格子づくりの旅籠や湯治宿、お土産屋にお食事処や茶屋など軒を連ねる、昔懐かしい場所です。中も2,000人収容の神楽ドームや、かむくら座劇場では、週末を中心に年間150日以上の神楽定期公演が市内22神楽団によって開催されています。 (「安芸高田市観光ナビ」より)

レトロな雰囲気の飲食店・宿泊施設・土産物店が並ぶ。

店を通り向けたところに神楽ドームがある。自分は余り興味はないので、外から見物だけ。

かつて一世を風靡した「ダイハツのミゼット」ではないが、レトロな三輪車。

ここへきた主目的の温泉に入る。天然ラドン温泉「岩戸屋」。入浴料¥700。浴場は2階建てになっており、各階に露天風呂がある。

温泉でふやけた?後、昼ごはん。

かき揚げうどん、¥700。

「岩戸屋」内には休憩室はなかったが、出てすぐのところに一般の休憩所があり、横になれた。山歩きの疲れを少し癒したところで、次の目的地に向かう。

土師ダムサイクリングセンターに到着。土師ダムは、やはり20年位前、一度来たことがある。あるいはニュージーランド村とセットで来たのか、よくは覚えていない。そのときはレジャーセンターらしきものはなかったが、今は家族連れでにぎわう観光スポットである。

中にはレストラン・お土産コーナーがある。 レンタサイクルはこの奥で借りる。 これまで、レンタサイクルは、ここ以外でも何度か乗ったので、今日は変化をつけてボートに乗ろうかと思っているが、ボート乗り場は見当たらない。

向こうは先ほど車で走ってきた、県道5号線。こことは土師大橋で繋がる。

サイクリングセンターの近くを少し歩くが、下流のほうに公園があり、人が多くいるので車で移動する。のどごえ公園、ここも前回来たときはなかった。

いい感じの公園だ。

サイクリングセンターからのサイクリング専用道路はここまで来て、もっと先まで続くようだ。

遊園地は大賑わい。

ダム湖畔の方へ行く。

湖畔から、サイクリングセンター方面を見る。

趣のある石が並んでいる。向こうにボートが見えるので行ってみる。

貸しボート「営業中」だが、おそらくシルバーのおじいさん2人が、暇そうに座っている。

ボートが見えるが、多くは横倒しにされ、3艘だけが浮かんでいる。借りる人は皆無のようだ。小雨も振り出し、楽しげな雰囲気もないので、貸しボートは止めた。

趣のある石が並んでいると思ったら、「せせらぎ広場」の名前が付いていた。

最後にダムに行く。のどごえ公園から下った、ダムの東側。

 ダムの下流方向。

土師ダム湖。(八千代湖)

ダムは、朝6時~夜10時は車でも通過できる。反対側に移動。
土師ダム:広島県安芸高田市八千代町大字下土師地先、一級河川・江の川本川上流部(かつては可愛川と呼ばれていた)に建設されたダムである。国土交通省中国地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、江の川本流に建設された唯一の特定多目的ダムである。堤高50.0mの重力式コンクリートダムで、江の川の治水と、広島市や芸予諸島など広島県中央部への利水を目的としており、分水嶺を通じて太田川水系に導水をしている。広島市の重要な水がめの一つ。ダムによって形成された人造湖は当時の所在自治体であった八千代町に因み八千代湖(やちよこ)と命名され、財団法人ダム水源地環境整備センターが選定する「ダム湖百選」に、当時の八千代町の推薦で2005年(平成17年)に選ばれている。(ウィキペディアより) 

展望台に登る。

展望台からダムを見下ろす。

小雨が降り始めた。雨が葉をたたく音がする。

今日の予定を終えて岐路に着く。帰りは可部まで下り、広島北ICから高速に乗った。