大津島は、Y字を少し崩したような形の南北10km足らずの島。かつては二つの島だったが、400年くらい前に二つの島がつながったといわれており、南端の馬島は、現在では、島といいながらも、大津島の中のひとつの集落の呼び名になっている。すぐ北にある縦長の仙島、お椀を伏せたような黒髪島と南北に並び、徳山湾を外海から隔てて、天然の良港にしている。人口は約400人程度で七つの集落がある。年齢65歳以上の高齢化率が約70パーセントに達しており、少子過疎高齢化の進んだ限界集落である。(ウィキペディアより)
新幹線で徳山まで行き、徳山港から大津島行きの船に乗る。徳山港は、JR徳山駅南口からすぐ。大津島行きの他に、大分県国東半島行きのフェリーも運行している。大津島行きは左側。運賃は片道¥710。船にはフェリー「新大津島」と巡航船「鼓海II」が交互に運行している。
今回は、フェリーに乗る。GWの祝日だけあって観光客も多い。
フェリーの場合大津島・刈尾港までは30分。(馬島港までだと44分)
進行方向左手には、先日行った大華山と粭島が見える。
右手には仙島と黒髪島。2つは干渡(ひと)と呼ばれる砂州で繋がっている。
黒髪島は御影石(花崗岩)で有名な島。現在も採掘が行われているが、見えるのは採掘跡。採掘現場はおそらく反対側にある。
刈尾港に到着。降りるのは住民の方で、観光客はいない。自分のようなコースを選ぶ人はいないのだろう。
港前の家で、ワンちゃんがお出迎え。
まず、本浦に向かって歩く。海沿いの道から左折。
本浦に行くには峠を一つ越えることになる。そう遠くはない。
峠を越えると海が見えてきた。
本浦港に到着。
天気がいいので、おばあさんが退役した漁船の上に布団を干していった。
大砲山方向に向かう道があるので進んでみるが…
行き止まり。道が違うのか?港にある観光マップで確認してみる。そうか、お寺の左側の道か。
ちょっと広い道なので進んでみる。しばらく坂を上ったが、どうやら道が途絶えてる。民家の庭でおばあさんが庭仕事をしているので見いてみる。この先、道はないとのこと。
さらにどこかで聞こうと思うが、郵便局もデイケアセンターも潮の家も、祝日のため公共施設は閉まっている。
ちょうどおじいさんが通りかかったので、聞いてみる。ここから登る人は皆無らしく、分からないとのこと。パンフにも現地の案内板にもちゃんとあるのに、どうなってるんだ観光パンフ!
この件について観光パンフを掲載している周南観光コンベンション協会にメールで問い合わせてみた。以下のような返信が来た。
「**様
お世話になります。
大津島砲台跡への登山道の現状について確認ができましたのでご連絡致します。
砲台跡までのルートはご連絡頂きましたとおりですが、道の補修・草刈り等は、ボランティアに依存しており、作業ができていない状態です。現状では本浦から砲台山への登山道は利用できません。(現在は無くなっている状況です)現状では、**様が利用されたルート(馬島方面)で登るしかありません。貴重な情報、お問い合わせをいただき、ありがとうございます。今後ともよろしくお願い致します。
一般財団法人 周南観光コンベンション協会事務局」
確かに高齢者ばかりの島の方々(65歳以上が70%)に、道の整備をお願いするのは酷だろう。納得。
あきらめて、来た道を刈尾まで戻り、馬島側から登ることにする。戻る途中、船からは見えなかった黒髪島の採石場が見えた。
刈尾まで戻り、馬島方面に向かい歩く。
立派な石材がある。現在ここでは採石してないようなので、黒髪島から持ってきたのだろうか。
石材店は現在も稼働しているが、奥に見えるのは採石跡地だろう。先日石切り場跡がたくさんある北木島に行ってきたので、石切り場に関しては詳しい。石切り場跡で、崖とセットになっている池を確認したかったが、奥へは立ち入り禁止。現在も稼働中の会社のようなのでやめた。
海辺の道を、馬島から刈尾に向かって走るおじさんに出会った。
砲台山登山口に着く。通常は馬島港で降り、ここから登る。
頂上まで約60分。
道は緩やかな上り坂。
広葉樹から竹林に変わる。
やっと半分まで登ったか。
竹の子ならず、竹の少年、竹の青年がたくさん生えている。
おお、ここにある。本浦へ下る登山道。ここを下りていけば、謎だった本浦からの登り口に出るだろうが、枯れた竹が倒れ、歩けるような状況ではない。
分岐点をさらに上に登る。
頂上の砲台跡まであと150m。
標高174m。砲台跡は去年いった江田島のものより、規模は小さい。
士官・兵合わせて54名がここに常駐していたとのこと。昭和20年の、米軍による徳山海軍燃料庫の空襲に対して、ここから反撃を試みたが、敵機の高度が高く、砲弾は届かなかった。
ベンチに腰掛けしばらく休む。登り口に所要時間60分とあったが、写真の時刻で計算してみると、自分は約30分で上っている。倍速で上ったわけだ。
大華山・粭島方面。
徳山市方面。
砲台跡の横にある指揮所跡。
下に降りたところにある兵舎跡。
下山した麓に咲く、野アザミの花。最近、桜や藤、満開の花を見てきたので、これはこれで新鮮に感じる。
下りる途中、登ってくる無口な若者に出会ったが、彼はこの自転車でここまで来たのだろう。「大津しまふれあいセンター」の文字があるから、レンタルだろう。
海岸沿いの道に戻る。遠くに馬島港が見える。
大津島ふれあいセンターに到着。
喫煙所とトイレがあるので一服する。
シーズンにはキャンプ・宿泊できる。
近くの堤防に上ると、のちほど訪れる魚雷発射訓練所跡が見える。
時間はちょうど正午。ここで昼ごはんにする。島に来る前に買ったコンビニ弁当。やはり、ここに来るまで、島には店も食堂も見当たらなかった。
昼ごはんを済まし、訓練基地跡までトンネルを通って行く。トンネルは左側の道に続いている。
人間魚雷回天は当然手動操作、深度・速度・潮流・敵艦の種類と状況など、今ならコンピュータで計算することを、すべて人間の直観と計算で、解析しなければならない。そのために、日々の厳しい訓練が繰り返される。このトンネルは、整備工場から訓練所まで魚雷を運搬するためのものである。
トンネル内を写真に撮ると、映画に出てくる異次元に通ずるトンネルみたいだ。
トンネル内には、写真が展示され、音声ガイドが流れる。
出撃前の写真。
出撃前にしたためた辞世の句。その中にある18歳の兵士の
「和ちゃん 海は私です」の一節が胸を打つ。「和ちゃん」は恋人だろう。
出口まで歩いていく。
トンネル出口。
回天訓練基地跡までの桟橋はかっこうの釣り場になっている。
回天訓練基地跡。
また、トンネルの入り口まで戻り、「回転記念館」と展望台に登る。見えるのは展望台がある鬣山。
トンネルができるまでは、海岸沿いに魚雷を運搬していた。中央に見える白っぽい直線は軌道の跡。
大津島小学校の横を通り開店記念間に向かう。大津島小学校のある敷地には魚雷整備基地があった。高い塀は基地の様子を、住民から隠すためのもの。
塀が終わると、大津島小学校が見える。在校生不在のため、現在休校中。
回天記念館に行く途中にある、養浩館。観光マップにも載っていた売店・休憩所だが閉鎖中。不明の本浦からの登山口が記入された観光マップが更新されていない証だ。
回天記念館に着く。
入り口に続く道の路傍に、殉死した兵士名を刻んだ石碑。
回天の実物大模型。
終戦後に建てられた慰霊碑。
入館料¥300を払って中に入る。
当時の地形模型。確かに、大津島小学校のあたりに工場のようなものがある。
悪天候をおして訓練に出たが故障して沈没してしまった。兵士は、海底に沈んだ魚雷の中で、死にいたるまで魚雷内の壁面に、辞世の句と沈没までの経過を2000文字に渡り書き続けた。
映画「出口のない海」のロケに使われた魚雷のセット。
確か、映画のラストも、主人公が海底に沈んだ魚雷の中で最期を迎えた。
一度下まで戻り、展望台に登る。頂上まで約700m。
午前中に登った砲台山よりも急な上り坂。
「はあやめるかねえ」、いんや、まだ登るけぇね。
「まだ先は長いけぇ。がんばってな」、すれ違ったおじさんに激励される。
休憩地で一休み。
横道にそれて、魚雷見張り台に寄ってみる。
魚雷見張り台。回天基地が設置される前は、回天の原型となった93式酸素魚雷の発射訓練が行われていた。魚雷は宇部方面に向けて発射された。
頂上広場に着く。標高163m。砲台山より10m弱低いが、坂道は急なので、砲台山よりしんどかった。
丘に立つモニュメント「未来の塔」
黒髪島・徳山方面を望む。
南方面を望む。見えるのは野島。
野島は本土防府市から東南へ14.8キロメートル離れた海上にあり、周南諸島に属し、行政区域を防府市とする離島で、野島・平島・沖島の3島からなり、面積は0.87平方キロメートルです。島の人達は、面積0.73平方キロメートル、周囲約3キロメートルの野島に居住し、その集落は北側の入江に密集しています。人口は101人(平成29年7月現在)で、主たる産業は漁業です。本土との交通機関は、平成24年11月22日から新造船「レインボーあかね」が、所要時間約30分で一日に4往復しています。(防府市HPより)
馬島港、大津島観光の拠点。通常はここで下りて観光する。
現在時刻は14:20。次の船は16:40。2時間以上の待ち時間がある。
先ほど上った展望台(鬣山)と、かつて回天を搭載した潜水艦が出航した港。
桟橋近くの公園でひと眠りして時間つぶしをしようと思う。子供がいなくなって公園を使用することがないので草ぼうぼうになっている。藤棚の下のベンチに横になるが、眠るどころか目がさえてくる。
せっかくなので馬島を一巡りすることにした。次の船が出るまで2時間、十分帰って来られるだろう。先ほど訪れた回天訓練基地跡が遠くに見える。
馬島の南端。民家が点在する。馬島はもともと島で、約400年前に他の島と陸続きになったが、地名は「島」が残っている。
道は海岸べりでなく、山の中腹を取り巻くように巡っている。
島の東側に差し掛かったところで、きれいな形の島が見えてきた。洲島。
洲島と粭島の間に気になる島があった。後で調べると、岩島・旧監視塔。
岩島は徳山湾の入口、洲島と粭(すくも)島の間にある。洲島は無人島で渡ることは出来ないので、隣の馬島からか、粭島から遠望することになる。
馬島から1500mくらい、粭島から500mくらいである。大正12年(1923)建造の岩島灯台は島の中央にあるのでどちらからでも見えるが、海軍が使用していたという監視塔は西側にあるので、馬島からしか見ることが出来ない。
ここだけ、きれいに草が取り除かれている。ずっと歩いてきて久しぶりに人の気配を感じる。馬島一周も終わりに近づいたのだろう。
馬島港周辺の集落に戻ってきた。このあたりが馬島の中心地。
役場らしき建物の掲示板に大津島の観光ポスターが貼ってあるが、ずいぶん色あせている。
港に帰ってくる。馬島一周はちょうど1時間だった。すでに船が待機している。来る時は、フェリーだったが、帰りは巡航船。船の側面には「OHZUSHIMA⇔TOKUYAMA」と書いてある。やはり「おおづしま」と読むようだ。フェリーに比べると、若干速度は速いが、寄港する港が一つ増える。馬島⇒刈尾⇒瀬戸浜⇒徳山の航路になる。(フェリーは瀬戸浜に寄らない)
来たときは、ワンちゃんがお出迎え。帰りは、ニャンコがお見送り。
似島でも真鍋島でも、港に人馴れした猫の一群がたむろしていたが、港は魚の水揚げのおこぼれなど餌にありつけたり、観光客にもらえるから定着するのだろうか。船は30前から乗船できたので、なかで休みながら出航を待った。
徳山港に到着。フェリー乗り場とは反対側の桟橋に着く。
すでに17:20なので、前回の徳山町歩きでは時間が早すぎてよれなかった文化湯に入って帰る。入浴料、全国共通¥420。
今回も例によって、道なき道、いや本当に道がなかったのだが、それはそれで印象深い旅になった。
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