2018年6月15日金曜日

津和野(2018. 6.15)

津和野は、一度は行ってみたい町のひとつだった。基本的には公共機関を使うことにしているので、最初はJR山口線のSLも取り入れたコースを考えたが、列車の本数が圧倒的に少なく、日帰りするには無理だとわかって、今回は車で行くことにした。広島からの距離を単純に直線で引いてみても、列車では新山口で乗り換え曲折する経路になる。道路のカーブがあるとしても、距離的には車の方が断然短い。

往きは、山陽自動車道で新岩国まで行き、そこから錦川沿いに北上し、六日市を経由して津和野に至る。帰りは、津和野から山陰道(国道8号線)を南下し、徳佐あたりで鹿野方面に左折し、中国自動車道で、鹿野から吉和まで。吉和からもみのき森林公園の下を通り、湯来を経由して広島に至る。恒例の温泉は、帰りに津和野なごみの里に寄ることにする。車の運転としては、5月のしまなみ海道に次ぐグレートジャーニーだ。

早朝5時半に家を出る。六日市を通過したところで、トイレに行きたくなり、むいかいち温泉(別の機会に来ようと思っていた)で借りることにする。表に見当たらないので、中に入って聞いてみる。朝風呂は6:30~10:00で営業しているとのこと。

まだ早いし、眠気覚まし(逆に眠くなるか)にと思い、風呂に入った。

8:40に、前もって調べておいた無料駐車場、県立津和野高校横の太皷谷稲成神社参拝者駐車場に到着。広い駐車場、自分以外には遠くに1台とまっているだけ。

観光スポットはあらかじめ調べておいた。最初は太皷谷稲成神社(鼓でなく皷の文字を使う)。車道を歩いて上る。

大鳥居をくぐる。

神社下の駐車場から上へ。
太皷谷稲成神社:島根県鹿足郡津和野町にある神社である。通称「津和野のおいなりさん」。全国で唯一「いなり」を「稲成」と表記する神社とされる。宇迦之御魂神(稲荷神)と伊弉冉尊を祀る。日本五大稲荷の一つに数えられ、出雲大社に次いで県内2位の年間参拝客を数える。(ウィキペディアより)
稲荷を稲成と表記するいわれは、ここ

太皷谷稲成神社。鮮やかな朱色がまぶしい。

茅の輪。くぐり方の説明がある。説明通り、左・右・左と3回まわって本殿に向かう。

神社の裏にある太皷谷命婦社(みょうぶしゃ)。
命婦とは古くは五位以上に叙せられた女官及び五位以上の官人の妻をいい、前者を内(うち)命婦、後者を外(げ)命婦といっていた。内待の司の下級の女官のことをいい、稲荷の神使いといわれるお狐様の異称。(太皷谷稲成神社のHPより)

下山する階段があるので降りるが、階段は鳥居の連なりでおおわれている。詳しく調べてこなかったが、自分が歩いて登ってきた車道は裏道で、この階段が表参道にあたるらしい。これはぜひとも歩いて上らねば… いったん下まで降りる。
これが参道入り口。

再度、歩いて上ることにする。

後で調べたら、鳥居は千本くらいあるという。

ここが表参道である。

ようやく1/3くらいまで来た。かなりの数の階段を登るわけだが、いつか行こうと思ってる四国の金毘羅さんの予行演習だ。

一度上った神社が見えてきた。

頂上まであと少し。

頂上から見下ろす。

神社の参拝を終え、津和野城跡に向かう。登山道もあるらしいが、後の町歩きのことを考えて、観光リフトを使うことにしている。リフト乗り場は、車道を少し降りたところにある。

リフトは往復¥450。シルバーのおじさんが2人で管理していた。リフトで上がっても、約40分くらい歩くようになるがいいかとの確認をされる。今日は山歩きのイメージを持ってなかったが、ここまで来たので、OKとする。リフトは普段は静止していて、お客さんが来たときだけ運転する。これから運転すると、頂上の係り員に連絡していた。

リフトが動き出す。

約5分足らずで頂上駅に着く。

頂上駅には、やや若目のおじさんが一人いた。お客がほとんどいないのに、一日中暇だろうな…と余計なお世話をしてしまう。

さて、ここから城跡まで山歩き。

城内の一部を修復中なので、仮説の遊歩道が巡らしてある。

中継地点に到着。津和野城は最初、鎌倉時代に元寇対策をきっかけとして築城された…などの記述がある。
 津和野城は町の南端に位置する標高370mの山上にあった。別名を三本松(さんぼんまつ)城、蕗(ふき)城、山の名を霊亀山という。南北3kmにのびる丘陵上にあり、中世には全山が城塞として使用された。元冠にさいして、西国防備を命じられて西石見吉賀地方に下向した吉見頼行が、永仁3年(1295)から築城にかかり、約30年の歳月をついやして完成したと伝えられる。山上をけずり削平地とし、山の峰つづきに堀切をつくった典型的な山城であった。石垣構築は室町末期といわれる(しまね観光ナビHPより)

本丸城跡まであと5分。

本丸城跡の下に到着。

天守閣はなく、広場があるだけ。

景色はいい。津和野の町が一望できる。たぶん真ん中あたりが自分が車を止めているところ。

城の南側を望む。

本丸から一段下がったところ、「太鼓丸」。

ここから下りる。

本丸から下りたところ。今いるところは、近世・江戸時代の城跡で、中世の山城に行くには、この先を進むことになるが、今日は「町歩き」で「山歩き」ではないので… などと妙な理屈で、ここで引き返す。

もう一度、城跡を見上げる。

来た道を、リフト乗り場まで戻る。途中で、シニア夫婦1組・蛇1匹に出会う。

頂上駅係員のおじさんが「暑かったでしょう」とねぎらってくれる。城跡見学を終えて山を下りる。

 さて、ここから津和野の町歩き。

町並み保存区域に向かい歩く。JR山口線の下をくぐる。

途中にある杜塾美術館。今日はパス。

郷土資料館。脇の休憩所で一服するが、見学はパス。

津和野大橋を渡ると、町並み保存区域。

橋の上から津和野川を見る。

向こうに山口線が見える。SLが走れば絵になるだろう。

橋を渡ったところ。ここが太皷谷稲成神社参道入り口。津和野駅からだと先にここに来る。

橋のたもとに立つ「鷺舞」の彫像。
鷺舞(さぎまい)とは主として八坂信仰の神社にて奉納される伝統舞踊。島根県津和野町及び京都市の八坂神社で奉納されるものが著名である。津和野町のものは「津和野弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形民俗文化財に指定されている。(ウィキペディアより)

殿町通り。津和野のメインストリート。

鯉が泳ぐ掘割。ちょうど水仙の季節。


少年の森鴎外が通った藩校「養老館」。

向かいは武家屋敷の門。観光ガイドのおにいさんが、シニアの団体に熱弁をふるって説明していた。

通り沿いの掘割には、、鯉が泳いでいる。

少し歩くとカトリック教会がある。

教会には珍しく、中は畳敷き。スリッパに履き替えて入った。記名帳に記入する。1日1件くらいだが、遠方からの訪問者の名前も見える。

殿町通りが終わる辺り、鯉の餌を売っている店があった。

1袋¥100で買う。

鯉のいるところまで通りを戻り餌をやる。

ここから、町人屋敷のあった本町通りに入る。

振り返って見ると、殿町通りと本町通りでは道の色が違うのが分かる。

町人の家らしい家屋が並ぶ。

こちらは酒屋。

ヤマトの宅急便もしゃれた建物になっている。

津和野日本遺産センター。入場無料なので入ってみる。入場者は自分だけ。

案内のおねえさんが話しかけてきた。いろいろ説明したそう。自分もいろいろ尋ねる。
A. 津和野城の起源が元寇対策をあったが、海から遠すぎはしないか?
Q. 表向きは元寇対策で、幕府の言うことを聞くふりをするが、実は銅山開発のもくろみがあったらしい。
Q. 明治維新のとき津和野藩はどうしたのか?
A. 幕府と長州藩の狭間でつらい立場だった。
 現在津和野の人口は8000人弱。減り続けているが、一方、都会の喧騒を離れて、勉強したいと希望する生徒もいて、県外から越境入学する子も多いとか。
その他、津和野についていろいろ尋ねる。おねえさんは的確に答えてくれる。
およそ10くらいお話させてもらった。ありがとうございました。

本町通りが終わるあたり、郵便局がある。これも保存地区バージョンだ。

JRで来たなら下りたであろう津和野駅。人がいない。

時刻表を見てみたが、1時間に1本。少ないときは、2時間に1本。このアクセスの不便さも、人が少ない一因だろう。

 安藤光雅美術館に行く。 安藤光雅、今まで知らなかったが津和野の観光スポットを調べるときに、初めて知った。ノスタルジックな画風に興味を持った。
 安藤光雅:子供の頃より、画家への夢を抱き、美術のみならず、科学・数学・文学などにも造詣が深く、豊かな知識と想像力を駆使して独創性あふれる作品を発表してきた。原色や派手な色をほとんど使わない淡い色調の水彩画で、細部まで書き込まれながらも落ち着いた雰囲気の絵を描く。主な著書に、『ふしぎなえ』、『繪本平家物語』、『天動説の絵本』、『空想の絵本』、『ABCの本』、『旅の絵本』、『算私語録』、『空想工房』、『空想書房』、『わが友 石頭計算機』(『石頭コンピュータ』としてリメイクされている)など。(ウィキペディアより)

入場料¥800。またしても自分ひとり。チケット購入時に、プラネタリウムを見るかと聞かれた。意味はよく分からなかったが、¥800払ったのだから、当然YES。

淡い色調の作品がたくさん展示されている。ただ、プラネタリウムの時間が気になって急ぎ足になる。

美術館は作品だけでなく、子供時代を思い起こさせる、昔の学校の教室が再現されている。

作品よりも、こちらのほうが印象に残った。

プラネタリウム。放映約35分。いつの間にか眠ってしまった。内容はよく覚えていない。

腹が減ってきたが、もう一つ、観光案内所に併設された桑原史成写真美術館に寄る。 安藤光雅美術館に行ったので¥100割引で¥200。
桑原史成:島根県鹿足郡津和野町(旧木部村)生まれ。1960年東京農業大学および東京総合写真専門学校を卒業後、水俣を皮切りに現在まで、韓国、南ベトナム、ロシアなどを取材。個展「水俣病」(1962年)で日本写真批評家協会新人賞、「韓国」(1965年)で講談社写真賞、1970年に日本写真協会年度賞、「ドキュメント二人展」(1982年)で伊奈信男賞を英伸三とともに受賞。2014年、写真展「不知火海」および写真集「水俣事件」で土門拳賞を受賞。

過去50年の北朝鮮を取材した写真が展示してあった。

駅前から少し歩いたところ。今日は弁当持参ではないので、ここで昼ごはんにする。

津和野らしい古風な内装の店。

山菜うどんを注文した。

さて、午後のウォーキング。残るスポットは「乙女峠」と「森鴎外記念館」。まず乙女峠。マップで見ると踏み切りを渡って、津和野駅の裏側にあるらしい。

入り口があった。

坂道を登っていく。

途中、「コケガール」が見たら喜びそうな苔むした岩。

キリシタン殉教史跡「乙女峠」に到着。

案内板は詳しく読んだ。明治元年、江戸時代から続いた禁教令はまだ解除されていなかった。長崎浦上から隠れキリシタン3394名が捕らわれ、津和野藩に連れてこられた。彼らは狭い納屋に閉じ込められ、禁教令が解除されるまでの5年間、棄教を迫る拷問を受け続けた… と言うもの。ひどい話だ。詳しくは津和野カトリック教会のHPを。

裸のまま三尺牢に閉じ込められた安太郎という若者の前に、毎夜聖母が現れ、安太郎を慰めたと言う話を題材にしたもの。

拷問に使われたと言う井戸。

聖母と殉教者たちを描いたレリーフ。

ここから殉教者の墓がある千人塚までは「十字架の道行」と書いてある。某HPによると
「その道にはキリストが十字架を担いで歩いたときの様子を描いた十字架の道行きのレリーフが設置されており、主の十字架を黙想しながら森林を歩くことができるようになっています。」

千人塚まで700mとあった。往復するとかなりの距離になるので、ここで下りることにする。

あとで調べたら、千人塚まで、こんなレリーフが設置されているようだ。行っておいてもよかったかなと、少し後悔する。
(画像はネットから)

森鴎外記念館はかなり離れているので車で行くことにする。駐車場まで戻る途中、閉店したままの観光センター。寂しさが漂う。

津和野に唯一あったコンビニ。ローソン+ポプラ、どういう意味なのだろうか。

津和野川沿いに歩いていく。

町歩き最後のスポット。森鴎外記念館。

津和野の観光施設。どこも立派なのだが、どこも人がいないのがさびしい。経営が成り立っていくのだろうかと、また余計なお世話。

入館料¥600。中は落ち着いた雰囲気。

若い頃、森鴎外の小説のいくつかは読んだことがある。「高瀬舟」「安寿と厨子王」「阿部一族」「ヰタ・セクスアリス」。小説の内容は忘れたが、今日は鴎外の人生について熱心に読んだ。10歳で立身出世のため東京に出て、二度と津和野に変えることはなかったが、遺骨は津和野に埋めてほしいを遺言した。墓は津和野の永明寺にある。

資料室裏には津和野川が流れる。

記念館の隣には別料金制の森鴎外旧宅がある。(記念館の入館料に含まれている。旧宅のみの鑑賞は¥100)

さて、町歩きの最後は温泉。といっても今日は朝も入ってるので2回目の温泉。「津和野 なごみの里」。津和野から少し東に行ったところにある。

タオルつきで入浴料¥600。これからまた長いドライブになるので、ゆっくり休む。

津和野の町歩きは以下のとおり。

帰りは予定通り鹿野IC~吉和ICまで行き、吉和から湯来に抜けようとしたところ、アクシデント。崖くずれのため、通行止めなのだ。ここに来るまでどこにも書いてなかったぞ。せめて、吉和ICを下りて湯来方面の矢印がある交差点には表示してほしい。仕方なく引き返し、また吉和ICから高速に乗り、広島JCT経由山陽道で帰って来た。約3時間半の帰路ドライブだった。

自動車の運転は以下のとおり。

周囲を高い山々に囲まれた盆地である津和野。都会と隔絶されたような世界で、良くも悪くも人が少なくて、のどかな時間をすごした。

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