平郡島:山口県柳井市の南約20kmの伊予灘に浮かぶ東西に細長い島。人口591人。急斜面が多く段々畑が山の上まで続いている。集落は東と西に分かれて存在し、船はそれぞれの港へ寄航する。公道は北側のみで二つの集落を繋いでいる。南面は細い農道。中央部は標高450~470mからなる深山でキジなどが生息する野性的な森林になっている。段々畑は少子高齢化により大半が休耕地であって藪化しているが、畜産による修景が昨今試みられ始めている。周囲の海は豊かな藻場を形成し、磯では海藻の収穫や、沖合いは遊漁もできる穏やかな漁場である。(ウィキペディアより)
ただ、船便が1日2便しかないのだ。時刻表の往(行き)・復(帰り)は島民の側から見たもの。また、本土から渡るものには、滞在時間が短すぎるのだが、これも島民の暮らしを考慮しての設定だろう。運賃は、柳井港~平郡¥1540。西も東も同料金。
9:30平郡西に到着→①蛇の池→徒歩で平郡東へ→②五十谷三島→(時間があれば)③大嶽(おおだけ)→14:00平郡東より柳井港行きフェリー
平郡島ではかつては多くの牛が飼われていたが、今は五十谷三島ちかくの牧場に牛が戯れるらしい。できれば牛のいる風景も見てみたい。
滞在時間は、4時間半。そして、帰りの船に遅れないこと。遅れたら、島で一夜を明かすことになる。帰りの船に遅れないプレッシャーと、1日2便しかない島ののどかさを味合うという、初めから矛盾した島歩きになる。
JR柳井港に8時前に着く。船の発着する港は駅からすぐ。自分の記憶にある港風景に比べ、車道も広くなり、ずいぶん整備されている。
柳井港と平郡島を結ぶフェリー「へぐり丸」。
島の名前はへいぐん、船はへぐり。不思議に思う。柳井観光課にメールで問い合わせてみたが、①昔は平群島(へぐり)と呼ばれていた。②源平の時代、戦いに敗れた木曽義仲の遺児、へぐり丸がこの島に逃れてきたという島の伝承による。
この2点の返答はあったが、平群島がなぜ平郡島に変わったのかは、分からなかった。ネットで調べても、平郡島を平群島と書いた記事もあり、結構混乱しているようだ。
隣には、祝島行き定期船「いわい」。祝島は後日行く予定。
へぐり丸は定刻8:30に出航。2F船室には、仕事関係の人たちがちらほら。観光客は自分ひとりのようだ。天井には柳井名物の金魚ちょうちんが下がっている。
3Fの展望デッキに上がる。海風が快い。
柳井港が遠くなる。
進行方向に向かって左、遠くに大島大橋。
右手には室津半島。尾根には、これも後日訪れる予定の風力発電の風車が見える。
周防大島と室津半島に挟まれた海道を抜け、平郡島が近づいてきた。あの辺がおそらく、後で行くことになる蛇の池だろう。
半島を巡り、平軍西港に向かう。
平軍西港に到着する。仕事関係の車が何台か下船する。自分もここで下りる。
船は、平郡東に向かう。
平郡西を少し歩いてみる。廃校になった平郡西中学校。
同じく、休校か廃校の平郡西小学校。
マップのランドマークに郵便局があるが、これだろうか。他にそれらしきものはない。
民家の間を行く。
耕作地があるが、今は使用されていない。
最初に船を下りた海のほうへ戻る。
平郡島は強い海風や潮を防ぐためか、石垣が多いのが特徴だそうだ。
平郡三景①蛇の池に行くために坂を上る。
標高4~50mくらい。平郡西地区を見下ろす。
蛇の池は半島みたいに突き出た処にある。蛇の池方面に行く左の道と、平郡東に行く右の道の分岐点。蛇の池まで2.5kmとある。往復すれば約1時間かかる。後の時間配分も気になるが、せっかく来たので左に進む。
来る前の勝手な想像では、海辺を少し歩けば着くと思っていたが、道は山に入り上り坂。
何年前の車だろうか。思い切り廃車している。ここらで急に空腹を覚え、力が入らない感じ。今日は体調不良か、東行きはあきらめて、このまま西から船に乗ろうか… などと弱気になる。とりあえず腹ごしらえ。本土のコンビにで買ってきた、おにぎり弁当を半分ばかり食べて、少し休む。しばらくすると歩く元気も回復し、歩き始めるといつものウォーキングの調子になってきた。
思いのほか距離があったが、やっと海辺に出る。
蛇の池に着く前にある、赤石神社。
赤石神社:蛇の池の東側500mのところにあり、大国主命、事代主命、少名彦命が祀られています。島の人からは赤石様と親しまれており、その名のとおり大きな赤い石が御神体となっています。特に腰から下の病に効能があると言われ、昔は大勢の参拝者がおとずれました。旧暦の6月10日には赤石祭りが行われます。 (柳井市HPより)
少し歩いて、山側に入る。
蛇の池。海とは堤防で仕切られていて、淡水池である。
蛇の池:平郡西の集落から櫛崎の鼻をまわって約110mのところに位置する周囲500m水面23,000平方メートルの淡水湖です。海に面しており、幅10m程の堤防で仕切られています。以前は、老松の並木があり景勝地として知られていましたが、松喰虫の被害を受けて今は昔の姿を失ってしまいました。
蛇の池伝説:源平のころ、室津半島から平郡へ漕ぎ帰ろうとする漁師が18~19歳のみたことのない美しい女性に呼び止められた。今夜中に平郡島へ渡してくれと頼まれ、そのお礼に『一度だけの大漁』を約束した。
平郡に近づき女性の指差した波打ち際をみると、驚いたことに今まで無かった池がにわかに姿をあらわした。
女性はその池のそばまで進み「お礼の漁はこの一帯でなさって下さい、決して二度と網をおうちになりませぬように」と固く言い置いて姿を消した。
次の朝、半信半疑でその場所へ網を入れてみると船は魚でふくれあがった。
大漁の味が忘れられない漁師が、再び同じ場所へ漁に出た。今回も獲物で船が一杯になったので、帰ろうとしたところ、一杯だった魚はたちまち蛇と化した。漁師はびっくりして船を捨て命からがら逃げ帰ったという。
女性が姿を消したこの池を「蛇の池」と呼び、池の水は神水として崇められています。
また、池には金物を入れると祟りがあるといわれています。 (柳井市HPより)
向こうでおじさんが草を刈っている。先ほど山道で、軽トラが1台追い越していったが、それに乗っていたのだろうか。それにしても、訪れる人もいないこの池に草刈に来るとは、市の職員だろうか。
池を一周しようかとも思ったが、時間も気になり途中で引き返す。
海辺の道に戻る。
漁船が見えるが、漁業用でなく、釣り人用のチャーター船のようだ。
先ほどの分岐点まで戻る道を急ぐ。
途中、また軽トラが追い越していった。草刈作業にしては短すぎるのだが…
分岐点に戻る。時間を見ると、11:10。ここから東浦まで13kmとある。平郡三景③大嶽は到底無理。平郡三景②五十谷三島に行くには、遅くとも午後1時までには東浦まで着かないといけない。2時間弱で13kmはきつい。まあ、東浦に着いてから先を考えるとして、早足で歩き続ける。
歩くのは、平郡島の西と東を結ぶ唯一の車道、県道155号線。
もちろん人には出会わない。打ち捨てられた工事用機材。
途中、休憩場所も展望スポットもない。路傍で一休み。カーブミラーに自分が小さく写る。
まだまだ先は長い。あの岬辺りで、ようやく1/3くらい。
何かを栽培していた施設の跡だろうか。
平郡島は平地は少なく、標高400mを超える長深山と深山がある。そこに日帰りで登る人もいるから尊敬する。その記録はここ。
季節はいまだ梅雨だが、今日は天気がよくて最高気温が30℃近くなる。手持ちのペットボトルも空になった。せめて冷たい水で顔を洗いたい。ところどころ山水が流れている。
届きそうな清水を探し、タオルを浸す。頭に水を浸し日よけに頭からタオルを垂らし帽子をかぶる。旧日本軍の南方の兵隊がしていたあのスタイル。出会う人はいないが、周りから見れば異様な感じだろう。時間は12:40。マップで位置を確認すると、ようやく半分の地点。もう平郡三景②五十谷三島はあきらめた。
打ち捨てられた人の営みの跡ばかりがあった道すがら、奇岩だけが生き生きしている。
ここまで歩いてきて唯一のスポット。「駆逐艦梨慰霊碑」「日米海戦古戦場」の碑文。
7月28日、平郡島北岸沖において停泊中、アメリカ空母機動部隊艦載機の空襲を受ける。早朝から午後にかけてグラマンF6F戦闘機による複数回の攻撃を受け、艦の各所にロケット弾を被弾、このうち午後の艦後部弾薬庫へ命中した1発により大きな損傷を受け、浸水により傾斜が増大、総員退艦が発令された後、午後2時に転覆沈没した。確認された戦死者は38名、行方不明者を含む犠牲者は60名以上であった。生存者155名は僚艦「萩」と地元漁民に救助され、「萩」にて翌日に呉に帰還した。(ウィキペディアより)
打ち捨てられた漁船。早足で歩いてきて、足が痛い。時間は午後1:10。平郡三景②どころか、東浦から出航する帰りの船に間に合うかも心配になってきた。
もう、ただひたすら平郡東港を目指して急ぐのみ。帰りの船に間に合わせようとランニングも取り入れた佐木島の島歩きを思い出す。あの時は自分の予定で早い便に乗るために急いだ。乗り遅れても次はあった。今回は後がない。結局、船に乗り遅れないための島歩きになってしまったか。あの岬をめぐれば東浦が見えるはず。
最後の岬をめぐる。ここまで歩いてきて、もちろん人には出会わなかった。車が3台通っただけだった。
やっと東浦が見えてきた。でも、よりによってフェリー乗り場は町のはずれにある。遠いがなんとか間に合うだろう。いや、間に合わなければならない。
東浦集落に入る。この島のシンボルである石垣。
今日はじめて出会う島民は女の子だった。彼女たちから声をかけてきた。
「こんにちは」
「学校はどうしたの」
「4時間目で終わったの」
おそらく平郡東小学校の児童だろう。平郡東小学校は、平成14年を最後に児童数0になり、しばらく休校になっていたが、平成24年に1名の入学があり、たった一人の小学校として再開した。「たった一人の小学校」はテレビでも報道されたようだ。平成29年で6名が在学中。生徒数の変遷は小学校のHPに詳しく載っている。この女の子たちも、平郡東の児童だろう。
西に比べ、東のほうが平郡島の中心になるのか。きれいな郵便局がある。
ようやくフェリー乗り場近くにたどり着く。後で調べたら、これは2018.4.7に開店したばかりのギフトショップ「夢の島」らしい。いずれにしても、今回はフェリーに乗り遅れないことが目的になってしまって、お土産どころではなかったが…
やっとフェリーに乗れた。時間は午後1:50。早足で歩いてこの時間。途中ゆっくり休憩していたら、やばかった。平郡三景どころではなかった。
ただただ歩きとおしの平郡島を離れる。少し横になろうと船内に入って靴を脱いだところで、左のふくらはぎが痙攣を起こす。あまりの痛さにさては、歩きすぎて肉離れをおこしたのかと思ったが、しばらくすると収まった。
足を引きずりながら、展望のいいデッキに上がる。褶曲した岩が見える。標高400を超える山々を作り出した力だ。
フェリーは五十谷三島をめぐるように進んでいく。歩いて行くことができなかったので、せめて船上から眺めることにする。
確かかに、大きさの異なる島が3つ見える。 今日はこれで満足とする。
牛が見えないかと、最大のズームで写真を撮ってみたが見当たらない。上のほうに道が見えるが、あれが東浦と五十谷を結ぶ道だろうか。だとしたら東浦~五十谷も結構時間がかかりそうだ。とうてい歩きでは無理だったと納得した。
午後3:40、柳井港に到着 。柳井市のゴミ収集車が乗っていた。本土から渡ってゴミ収集しているのだろう。
最初の予定では、乗り継ぎ駅の岩国で途中下車して、岩国駅から歩いて8分の銭湯「こんぱる湯」に入って帰ろうと思っていたが、もう歩きつかれて直通で広島に帰った。
今回も世羅と同じく、時間の予測が甘く、歩き通しの島歩きになったが、足は確実に島を記憶した。
初めまして。父が平郡島出身で、母の両親とも平郡島出身のものです。母方の祖父が平郡を盛り上げたいと生前頑張ってましたが、今は過疎化が進み空き家も増えました。
返信削除平郡という名前はへぐり丸から来たと色々なところに書かれていますが、奈良時代に奈良に塩を納めていた木板が見つかったりしています。奈良時代の歴史があえて隠されていると思われます。明治維新以降、祖父母達は自分達の先祖は良いところのものだったが語るといけない時代になったと言っていました。平郡島は氏(貴族)の隠遁地と言われてました。昔、平郡島は島民以外が入ることが出来ない島だったそうです。
歴史学者などによると平群氏(へぐりうじ)が関係すると言われています。平郡島東にある早田八幡宮は応神天皇が祀られています。
応神天皇といえば渡来人の秦氏が日本に来る時に手助けした時の天皇でありそこには平群氏が関わっていました。これは奈良の平群氏の歴史で調べることができます。平群氏は瀬戸内海の航行をしていました。歴史的には第15代天皇応神天皇の頃ですので、270年頃と思われます。日本本島側の柳井市海岸では塩田が昔からあったそうです。塩を納めていたというので島と本島を行き来していたと思われます。
本島側の柳井市には代田八幡宮があり氏神様は同じく応神天皇であります。
本当側の柳井市には茶臼山古墳があり、奈良の新山古墳と全く同じデザインのサイズ違いのだりゅう鏡が出土しています。デザイン全く同じなので、時代が同じものとされています。(東京国立博物館に展示)
当時の平郡島は奈良と深く関わりがあり、
秦氏と言えば京都の祇園祭でも有名ですが日本に渡来してきたユダヤ系の民族です。古墳の埴輪に鼻の高いほりの深い人形は秦氏がモデルと言われています。日ユ同祖論と言われてますが現に同じ遺伝子を持つと言われています。
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返信削除山口県は明治維新を売りたい県かなと思うので奈良時代や古墳時代のような古い歴史があってもそこを出したがらないのは、
返信削除明治以降の権力者の利権が絡むと思われます。因みに明治維新にはバッグにイギリス(グラバーなどのパトロン)がいましたので、現代まで日本はイギリスやアメリカなどの権力者にシナリオ通り操られていると思われます。
日本の政治家の上部の人達は純粋な日本人では無いというのはアメリカのGHQの戦略なので、地域の役所も同じなのかなと思いました。(あくまで個人的見解です)