2019年4月10日水曜日

高野山 (2019. 4.10)

今年の花見のメインスポット、吉野に1泊2日で行く。2日間の天気は、1日目が雨、2日目はなんとか回復する予想である。雨なのは残念だが時期ははずせないので敢行することにした。1日目は吉野の近くの高野山に登り、2日目に吉野の花見をすることにした。今年の花見は、公園などの平地でなく、山の桜を目当てにしている。そういう意味では、先日行った岩城島積善山はミニ吉野といえる。

1日目、高野山に向かう。
新大阪まで新幹線。地下鉄御堂筋線で難波まで。難波から高野山までは南海電車特急「こうや」とケーブルカー。特急は全席指定席である。
まず、特急「こうや」で高野山麓の駅「極楽橋」に向かう。

10時頃、極楽橋駅に到着。

高野山行きのケーブルカーに乗り継ぐ。高野山は世界遺産で、日本人よりも外国からの観光客のほうが多い。

高野山駅に到着。

ケーブルカーの駅から、寺社のある高野山の町まではバスで行く。

 高野山の地図。最初は女人堂で降りて歩くつもりだったが、雨なので、高野山の中心になる千手院橋まで乗る。

千手院橋東でバスを下りる。ここは、ブラタモリでも紹介されていた、日本一標高の高いスクランブル交差点。この付近の標高は900mを超えている。

雨用に傘とセブンイレブンで買ったレインコートを用意してきた。まず屋内観光を済ませるため、金剛峰寺に向かう。一般に金剛峰寺といった場合、高野山全体を現す。建物自体は、正確には、総本山金剛峰寺と呼ぶ。
 金剛峰寺:和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院。高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100か寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が修禅の道場として開創し、真言密教の聖地、また、弘法大師入定信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部。
「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。(ウィキペディアより)

総本山金剛峰寺。

ご覧のとおり、皆さん傘をさしての参拝である。

入館料を払い中に入る。

多くの襖絵があるが、撮影禁止。

襖絵が写らないように撮影、「柳の間」。豊臣秀吉の甥、秀次はここで自害した。

金剛峰寺でいちばん興味がある蟠龍庭に向かう。

その前に、お茶とお菓子をいただいて休憩所に座る。ちょっとたどたどしい女性のお坊さんの講話が行われている。参拝者は、お茶をいただいて話を聴くことができる。

 蟠龍庭。
蟠龍庭:金剛峰寺の奥殿を中心とする我国最大の石庭でその広さは5000余坪にも及びます。京の白川砂と四国の名石を使用し勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配するように造られ、金胎不二を表すとされます。雲海の中で龍が奥殿を守っています。(高野山観光HPより)

廊下より蟠龍庭を臨む。

順路に従い回遊する。これもブラタモリで紹介されていた台所。

約2000人分のご飯が炊ける二石釜。

 台所の遠景。手前は煙抜き。

金剛峰寺を出る。襖絵は撮影できなかったが、見所はこのページに詳しく紹介されている。

ここから傘をたたみ、レインコートを着て歩く。壇上伽藍に向かう。

壇上伽藍に到着。東塔。 1127年、白河法皇の御願により建立されてもの。1843年の焼失の後、140年を経て1983年に再建された。

 高野山の写真でよく紹介される根本大塔。高野山内の建造物としては最大級の高さ。高野山のシンボルである。

金堂。高野山開山当時、寺社についで最初に建てられたお堂。度重なる火災で、7度目の再建。

これはぜひ来たかった六角経蔵。把手がついており回すことができる。

賽銭を上げ回す。

一回りすると、一切経を一通り読誦した功徳が得るといわれている。

回し終ったところで、金堂を見る。

御影堂(みえどう)。「弘法大師御影像」を奉安してある。

奥に見えるのは根本大塔。

御影堂の周囲には防火用に噴水装置が埋められている。火災の時には、水の壁ができる。その様子は、やはりブラタモリで紹介されていた。

壇上伽藍の中門。高野山の総門である大門に対して中門と呼ばれる。

中門をくぐり壇上伽藍を出る。

少し離れたところから。壇上伽藍の名のとおり、一段高くなっているのが分かる。

壇上伽藍から大門に向かう。

町石一番石を発見。今では、ケーブルカーとバスで高野山まで登れるが、昔は麓から約20kmの山道を歩いて登った。その道程を表示するのが町石。今の山登りで見る「山頂まであと**m」の案内に近いが、もっと宗教的な意味合いもあるのだろう。ちなみに麓からは180町石。1町石≒110mの計算になる。

途中のコンビニでおにぎりを買い店先で食べる。店にあった、般若心経を印刷したバッグが気に入ったので買った。大きいのでパソコンなど運ぶのに使えそうだ。

大門に到着。

ここは町石で六町 となっている。麓から登るにつれて減っていく仕組み。
 大門を表から。ここから先が高野山の聖域になる。

木々に隠れているが、雨の参拝の御褒美、雲海が見える。

大門から各所への距離が表示されている。一町石があったところから6町石の距離だから、110m×6≒0.7kmとなるわけだ。

大門から壇上伽藍方面に戻る。途中、霊宝堂に寄る。

見ごたえのある仏像など、たくさんあるが、すべて撮影禁止。

中でも、巨大な「胎蔵(界)曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」は迫力があった。


さて、高野山のもう一つの領域、奥の院に向かう。壇上伽藍のある地区は生前の空海が修行した場所、それに対し、奥の院は死後、弘法大師となった空海が住む場所。

途中にある、苅萱堂。
苅萱堂:加藤左衛門尉繁氏は、妻と妾の醜い嫉妬心を見て世の無常を感じ、領地と家族を捨てて出家し、寂昭坊等阿法師、苅萱道心(かるかやどうしん)と号して、源空上人(法然)のもとで修行し、高野山に登った。その息子である石童丸は、母とともに父親探しの旅にでる。旅の途中に出会った僧侶から父親らしい僧が高野山に居ると聞く。高野山は女人禁制 母を麓の宿において一人で山に登り、偶然父親である等阿法師に出会うが、父親である等阿法師ははるばる尋ねてきた息子に、棄恩入無為の誓のために、自分があなたの父親ですと名乗ることはせずに、あなたが尋ねる人はすでに死んだのですと偽りを言い、実の父親に会いながらそれと知らずに戻った。石童丸が高野山から戻ると母親は長旅の疲れが原因ですでに他界していた。頼る身内を失った石童丸はふたたび高野山に登り、父親である等阿法師の弟子となり、互いに親子の名乗りをすることなく仏に仕えたという哀話。 (ウィキペディアより)

父子を描いた絵が飾られている。

一の橋差点で左に曲がる。右はバスが通る車道。

ここから奥の院までの約2kmの参道には、延々と墓所が続く。その数、20万基と言われる。数々の武将の墓、個人の墓、企業の墓… その種類も様々である。生前は敵味方として争った戦国武将の墓も同じ場所にたたずむ。死後、ここで眠りたいと願うのは、弘法大師の側にいたい、なぜなら、釈迦の入滅後56億年後に弥勒菩薩がこの世に現れ人々を救済する、そのとき仏の言葉を通訳するのが弘法大師なのだそうだ… 要するに、ここいれば56億年後に救われる可能性があるということ。

それぞれの墓所の場所は分かりにくいので、入口にある案内図をキャプチャーして、都度見ながら歩くことにする。

参道に入る。

薩摩島津家の墓所。

前をお坊さんが行く。

これは企業墓所。グリコの墓所。

小田原北条氏の墓所。

森閑とした森の中を歩く。気持ちの静まる独特の雰囲気。

 武田信玄勝頼親子の墓所。左の大きいほうが信玄、右の小さいほうが勝頼。

墓の多くは金持ちのものだが、裕福でない庶民は、小さな一石五輪塔を供える。
五輪塔:教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。(ウィキペディアより)

 こちらは、大きな五輪塔。

主に武将の墓所を探して歩いている。石田三成の墓所。

すぐ近くに、明智光秀の墓所。

出羽庄内藩主酒井家墓所。全国津々浦々からやってくる。

約半分くらいを歩いたか。

パナソニック墓所。墓所の場所については、特に規則性はないようだ。多様の墓所が混在する。

広島、安芸浅野家の墓所。

長州毛利家の墓所。関が原の合戦以後の毛利家。

「ここは弘法大師様がお住みになる聖地です」

モノトーンの墓石ばかり続いたが、唯一色彩のある「仲よし地蔵」。子供のような表情が面白い。

高野山は真言密教の本山だが、異なる宗派の墓所もある。法然上人墓所。

これは別格の、豊臣秀吉墓所。

他の墓所と違い、広い敷地にある。

忠臣蔵の浅野内匠頭墓所。

マップで見ると、参道終点あたりに織田信長墓所があるが、位置が分からずしばらく探した。

少し登ったところにある、織田信長墓所。


参道を出る。あとから気づいたが、石田三成墓所近くに伊達政宗のそれもあったようだ。さほど綿密な予習はしてこなかったので、もれなく回ることはできなかった。

もともとはヒンドゥー教のシヴァ神の異名だったが、めぐり巡って七福神になった大黒天。

今来た道を振り返る。

水掛するための仏像が並ぶ。

御廟橋。ここから奥は弘法大師の住まわれるエリア。撮影はできない。大師がこの橋まで送り迎えしてくださるので、一礼合掌、脱帽して橋を渡る。

ということで、奥の院の写真はない。本堂の参拝を終え戻ったところ。横から御廟橋を写す。

帰りは来た道とは別ルートで戻る。参道に並行して続く道。

コーヒーカップをかたどったUCCの墓所。外国人に人気のようだ。

参道に比べ近代的な参道。

途中、親鸞聖人の墓所もあった。

奥の院を出る。出たところにバス停があり、ちょうど高野山駅行きバスが来たので乗る。

 来たときと同じく、千手院橋で降りる。寄りたいところがあるため。

各所に宿坊がある。宿泊は結構な値段がするようだ。外国の観光客には珍しいものだろう。

小雨の中を歩く。

実は、奥の院には、徳川家の墓所がなかった。徳川家霊台が別にある。ここは有料である。

徳川家霊台に上る。

三大将軍家光が建立したもの。家康と秀忠の墓所が並ぶ。これで¥200は高いなと思うが、金剛峰寺とのセット券があった。

高野山を出る。

門を出たところにある女人堂。

明治初めまでは高野山は女人禁制。女性は入山できないため、高野山周囲に巡らされた女人道を歩きながら模擬参拝をした。女人堂はそのための宿泊施設。本来7箇所あったが、現存するのはここだけ。

女人堂からはバスに乗り、ケーブルカーの高野山駅に戻る。結局一日中、雨模様だった。

ケーブルカーで下山する。

高野山下の極楽橋駅から、南海電車で橋本まで行く。途中の車窓から。大歩危と同じように山間の高所に家と道路が見える。

橋本に行く途中にある九度山駅。関が原の合戦の後、真田雪村が蟄居し、またここから大阪の陣に向かったとして、NHK大河ドラマ「真田丸」以後にできた、九度山・真田ミュージアムがある。時間があれば寄ろうと思っていたが、今日はパス。

橋本で南海電車からJR和歌山線に乗り帰る。右が南海電車、左がJR。

JR吉野口で、近鉄に乗り帰る。右がJRのホーム。左が近鉄。特急券だけ自販機で買えたが、近鉄乗車券を買う場所がホーム上にはなかった。とりあえず乗車し車内で買ったが、乗車券は一度外に出て買うらしい。

今日の宿は、近鉄橿原線・筒井駅近くの「サンホテル大和郡山」と言うところ。花見のシーズンで、当初計画していた、橋本や五条のホテルはいっぱいだった。筒井に行く前に、大和八木で近鉄大阪線に乗り換えて、耳成駅近くの「あすかの湯」に浸かる予定でいたが、橿原神宮前駅に着いたのが午後7時。乗り換えの待ち時間や、JRの遅れで予想以上に時間がかかった。風呂は今日は止めにする。橿原神宮前駅構内にある店で、「伊勢うどん定食」なるものを夕食にする。

近鉄橿原線・筒井駅で降りる。

ホテルは素泊まり¥6000。たまたま見つけたホテルだが、橿原神宮前と奈良との中間に位置し、駅からもコンビニからも近く、地の利のいいホテルである。奈良観光とかにも使えそうだ。

雨の中、頑張って歩いた一日だった。



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