今回、井原の周辺を車で回る。自宅から自動車で全て回るのはさすがに疲れるので、福山駅前でレンタカーを借りることにする。
午前8時、タイムズレンタカー福山駅前店。
今日はSUZUKIのワゴンR。 今日は、まず井原市の高越城址に行き、美星展望台、中世夢が原、弥高山、神辺城跡を回る予定。
(篠坂PA上りで)
福山東ICから高速で笠岡ICまで。そこから北上し、井原線の「早雲の里荏原」駅(これが気になった面白い駅名のひとつ。他にも「子守唄の里高屋」というのがある。) の横を通り、井原ゴルフ倶楽部の脇を山道に入る。高越城址の駐車場に到着。
歩いて少し登る。
高越城址。
山頂にある「北条早雲生誕の地」の碑。
高越城:鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えられています。戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原荘を治め、この高越城を居城にしていました。
伊勢新九朗盛時(のちの北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九朗は、青年時代までこの地で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上がり幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。新九朗は、この今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条5代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。 (城内案内説明板より)
中央遠くに見えるのが小田川。今年7月に起きた倉敷市真備地区の大洪水は、この川と高梁川の合流地で起きた。
例によってNHK大河ドラマ誘致のスローガン。これまで歩いた中では、三原市の小早川隆景、堺市の千利休があった。確かに、今年の「西郷どん」で鹿児島市を訪れる人は激増しただろうから、大河ドラマの影響は大きい。でも、「北条五代」ではちょっと役不足だと思うのだが…
記念名簿があったので記入する。神奈川・埼玉、意外と遠方からの訪問客もいる。ページをめくると、東京の地名もあった
続いて、美星展望台に向かう。高越城址から車で約30分で到着。曜日的には今日は定休日ではなかったが、連休明けの火曜日。残念ながら、祝日の翌日が休みであった。
とりあえず展望台の近くまで行ってみる。
美星展望台。
美星天文台:吉備高原の高台に位置し、まさに「360度の展望」が開け全天を見ることができます。 美星天文台は国内でも最大規模の公開天文台で(口径101cmの望遠鏡を持つ)、誰でも気軽に望遠鏡で見ることができます。(井原市観光協会HPより)
展望台のすぐ近くにあるのが、中世夢が原。中世をモチーフにしたテーマパークとでもいうものか。
中世夢が原:歴史公園ゾーンでは、鎌倉時代から室町時代にかけての吉備高原一帯に見られた「むら」の様子を遺跡や絵巻物といった発掘資料をもとに美星町の中世の風景をイメージし、時代考証により再現したテーマパークとなっている。また、テレビや映画のロケ地としても使われている。 (ウィキペディアより)
入園料¥500。払おうとするが受付に誰もいない。裏の事務所に声をかけてくださいとあるので、事務所を除くが、そこにも誰もいない。後で払うことにして、とりあえず入ろうかと思ったところで、作業服のおじいさんに出会う。500円玉を手渡しして入る。
園内は木々に囲まれた散歩コースになっている。
復元された中世の建物が点在する。
これは農民の家。
これは「穴釜」というものらしい。
現代焼成に使用される「登り釜」の前身に当たるもの。
園内の中央に向かう。
なんとなく中世の村っぽくなってきた。
三斎市。月3回市が開かれていた。
三斎市はテレビや映画のロケに使われた。市川新之助主演のNHK大河ドラマ「武蔵MUSASHI」(2003年) 。
上戸彩主演の東宝映画「あずみ2」(2005年)
これは武士の家を再現したもの。
武士といっても普段は農民で、有事のときだけ戦闘員になるアルバイト武士。専業兵士が生まれるのは織田信長による兵農分離以降、いわば正社員武士が誕生する。
いろりには実際に薪がくべられていた。
櫓門をくぐり城主の館区域に入る。
中世紀の武士が築いた最初の城郭が館。
城主が鎮座する。
山城の物見櫓に登る。
途中にある詰め所は、兵量や武具を蓄えるところ。
物見櫓を見上げる。
上まで登れるかと入り口を探したが見つからなかった。
山城の高台から見下ろす。
下に降りる。 三斎市は現代もにぎわっている。
今日は小学生のレクレーションで、お土産を求める子供たちで、おばさん大忙し。
中世夢が原を出る。
今日のコースは軽く流す感じで組んだが、強いてメインスポットといば弥高山になるだろう。夢が原から、来るまで40分くらい。各所に案内の矢印があったので迷うことなく駐車場まで来ることができた。
一帯は、弥高山公園になっていて、遊歩道やキャンプ場が整っている。
マップで見るとおり弥高山の頂上まで道がらせん状に続いている。
その道を歩いて登る。
標高634m。東京スカイツリーと同じ高さ。 「東京スカイツリーと同じ高さ」の表示は他の場所でも見たことがある。広さでは東京ドーム、高さでは東京スカイツリーが最近の基準になっているようだ。
弥高山山頂。標高 654m。
弥高山: 弥高い(いやたかい)という意味から名付けられ、ご飯を盛ったような山の姿から別名「飯(いい)の山」とも呼ばれるこの山は、広島県との境に位置する、ひと際高い山です。それでも、標高654mとハイキングには手ごろな低山。「雲海」が見えるということで国内の名山の1つにもなっています。(「ようこそ弥高654のホームページ」より)
頂上からは360度見渡せる。
南を見ると民家が見える。来るときにかなり坂を登ったが、こんな高いところで、よく生活できると思う。
北の三次・東城方面。ほぼ水平に中国山地が連なる。
下りは、急な坂道でショートカット。
弥高山ロッジもあって、ネットで調べた限りでは風呂も入れるようだったが、閑散とした今日の雰囲気ではどうだろうか。
食事するところもあったが、閉まっていた。
さて、時間は午後1時。昼ごはんを食べるとこもないので、神辺城跡の前に今日の風呂、「神辺天然温泉 ぐらんの湯」に先に行くことにする。ここから神辺までは結構な距離があるが風呂を楽しみにして運転する。道は山の中、狭い1車線になったり、また2車線になったり… 途中、7月西日本豪雨災害のため、崖崩れで片側通行3箇所。
山間にあった学校。廃校になった芳井町立三原学校。
先が長いので途中で一服。福山市に入ったあたり。
神辺温泉を探す。少し迷ったが、フジグラン神辺の敷地内にあった。現在ちょうど午後2時だから、弥高山から1時間かかったことになる。
「ぐらんの湯」の「ぐらん」はフジグランの「ぐらん」か。
入浴料¥770。中は広く、浴槽も多い。
尾道ラーメンを注文する。
風呂で一休みした後、神辺城跡に上る。城跡はJR福塩線・神辺駅の近くの山の上にある。例によって紆余曲折して狭い道を運転して、駐車場に着く。
山頂までは歩き。
橋の架かった堀切を渡る。堀切は城の防御のため、尾根を切ったもの。先日の、毛利元就の吉田郡山城でも見た。
右手に崖…
左手に谷を見て登る。この山全部が城になっているのがよく分かる。
本丸跡までもう少し。
神辺城本丸跡。 江戸時代初めに、福山城ができるまでは、備後の中心であった神辺城。この城の主導権を争った、神辺合戦もあった。
神辺合戦: 備後国の有力国人であった山名理興は、安那郡にある神辺城を居城とし、大内氏と結んで備後の外郡(そとごおり=備後国南部の沿岸地域)一帯に勢力を伸ばしていた。しかし、尼子氏の本拠地出雲国に遠征していた大内軍が天文12年(1543年)5月に敗北すると(第1次月山富田城の戦い)、山名理興は大内方から尼子方に鞍替え、大内方勢力と対立する。尼子氏の後ろ盾でさらに勢力拡大を図る理興は、出雲遠征の失敗で当主を失ったばかりの竹原小早川氏を標的として攻め込むが、大内軍は安芸国の最有力国人である毛利元就と共に反撃する。 (ウィキペディアより)
本丸から下りる。
城跡には建造物の遺跡はなく、石碑があるだけである。 これは福山城ができるときに、神辺城の石垣や建物のほとんどが転用されたためである。
少し下りたところに、仏像のある展望台があった。
北東に神辺町方面。先ほど風呂に入ったフジグランも見える。
南東に福山方面。
駐車場からは、神辺歴史民俗資料館に行く道があった。今日は休刊日で人はいないが、通常こんな山の上まで登ってくる人がいるのだろうかと、いつものように余計な心配をする。
午後4時半、無事にレンタカーを返却。新幹線で帰る前に、駅のすぐ近くの福山城に寄る。
神辺城から資材を移して建てられたのだろう。
今日は休館日で天守閣には上れない。今日は休みのところが多かった。
城を一巡りする。
一帯は、福山城公園になっていて、散歩する人、読書する人がいた。
自分も噴水を見ながら一休みする。
16:59の新幹線で広島に帰る。
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