2019年7月24日水曜日

吹屋ふるさと村 (2019. 7.24)

備中高梁市の吹屋ふるさと村に行く。交通の便がよくないので、他の観光地と組み合わせてのプランは難しく、単独の訪問になる。ただ、この1ヶ月、3回連続で頭痛に見舞われているので不安が付きまとう。
新幹線で岡山まで、備中高梁まで特急で、備中高梁から吹屋間ではバス。備中高梁は昨年の秋、備中松山城に登るために訪れている。

バスの時間まで小1時間あるので、JR高梁駅の2Fにあるスタバでコーヒーを飲みながら待つ。

蔦屋と市立図書館が併設されているが、人影は少ない。

10:50の吹屋行きバスがやって来た。備中高梁~吹屋のバスは1日3便しかなく、観光時間を考えると、帰りは吹屋発15:45のバスで戻る他、選択肢はない。

途中から曲がりくねった山道を走り約1時間、吹屋ふるさと村に到着。平日なので乗客は少ない。シニア女性1人、中国人の若者2人、そして自分の4人だった。

備中高梁駅でもらったパンフレット。約3時間半の観光時間なので、見所は決めている。ただ、広兼邸はふるさと村から約4kmの場所にあり、歩いていって回れるかどうか。
吹屋ふるさと村:赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された、見事な町並みが整然と続く吹屋の町並み、この町並みこそ、江戸末期から明治にかけ、吹屋の長者達が後世に残した最大の文化遺産です。豪商が財にあかせて建てた豪邸は、全国各地に見ることができます。しかし、吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州(今の島根県)から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にあります。昭和49年には岡山県のふるさと村に認定され、昭和52年には文化庁から国の重要伝統的建造物群保存地区の認定を受けました。 (高梁市観光ガイドより)

最初に郷土館。
ベンガラ窯元片山浅次郎家の総支配人片山嘉吉(当時吹屋戸長)が分家され、明治7年ごろより企画し本家の材木倉より良材を運び、石州の宮大工、島田網吉の手により明治12年3月完成されたものです。(高梁市観光ガイドより)

ここで5施設が回れる¥1000の周遊券を買う。1施設¥500だから、3つ以上回ると周遊券がお得。案内のおばちゃんが、広兼邸までは距離があると説明してくれた。事前に調べたところによると、レンタサイクルもあるらしいのだが、平日は要連絡となっており、よく分からないので歩くことにしている。

中に入る。

天井もベンガラを塗りこんで赤い。

狭い廊下。

その先は狭い階段。

ベンガラの色とマッチした、赤い石州瓦。

女中部屋にあった襖絵には、2020年公開の映画「燃えよ!剣」のロケが吹屋で行われたとのこと。歴史的な町並みは、映画やドラマのロケにしばしば使われる。

郷土館の前にあるのが旧片山家住宅。
弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる付属屋が立ち並ぶ「近世弁柄商家の典型」と高く評価され、平成18年12月、国の重要文化財に指定されました。(高梁市観光ガイドより)

 入ってすぐ台所。

靴を脱いで上がる。

仏間。

ここも狭い階段。

2階から屋根伝いの風景。

古い箪笥。

1階に下り外に出て、ベンガラの出荷場。

出荷までの行程が説明してある。

作業中のおばちゃんは人形。

ベンガラの赤が衣服に着くので注意のお知らせ。確かに、後から気づくと、何処で着いたか、ズボンが赤くなっていた。

敷地の奥にある米蔵。使用人も大勢いたから、消費も多いだろう。

旧住居を出て、おみやげのべんがら屋。

藤森食堂。本日休み。

メインストリートを下る。各施設には観光ボランティアがいるが、ほとんどシニア。歩いていると、おじいさんが、自分が周遊券を買ったのを知っていて、自転車も借りれると案内してくれた。場所は調べてきたので、あとから寄ってみよう。頭痛の不安もあり、借りれたら無理しないで済む。広兼邸まで往復2時間以上はかかる。時間的にも体力的にもきついのは確か。

吹屋郵便局。黒い復元ポストは現役。

郵便局の前から坂を登り、旧吹屋小学校に向かう。

調べたとおり現在修復工事中。

完成は2020年春とのこと。

旧吹屋小学校、工事前の姿。
 平成24年3月まで現役の木造校舎として国内最古とされていた、旧吹屋小学校(県指定重要文化財)。明治6年(1873)に開校し、同32年(1899)に吹屋尋常高等小学校と改称して、現在の場所に移転、同33年(1900)には木造平屋建の東校舎・西校舎が落成しました。(高梁市観光ガイドより)

坂の上から、石州瓦の町並みを見る。

すでに正午を過ぎているので、事前に調べもし、郷土館のおばちゃんも、定休日の店の多い中、営業していると案内されたうどん屋で、昼ごはんにする。

山菜うどん。¥600。

壁に「鶴瓶の家族に乾杯」の写真。やはり来ていた。2009年、ゲストは高橋英樹。その他多くのロケはここに詳しい。

坂の下にある。保存地区の石塔。

自転車を借りるために、観光案内所に向かう。

ベンガラ染め工房。予約すれば、染物体験が出来る。

下ってきた坂を振り返る。景観が赤で統一されている。

観光案内所でレンタルの手続きをする。

自転車をゲットし町並みの外れまでやって来た。灰皿があったので一服。

なつかしい「ボンカレー」の看板。町歩き女子2名が興味深く見ていた。

ベンガラ館に到着。ここまで坂のアップダウンが多かった。歩けば大変だったろう。電動自転車が活躍する。
弁柄は江戸中期(宝永4年 1707年)全国ではじめて吹屋で生産されて以来、江戸末期、明治、大正と大いに繁昌を続け、吹屋町並みの基礎をつくりました。このベンガラ館は、明治の頃の弁柄工場を当時の姿に復元したものです。(高梁市観光ガイドより)

敷地には、ベンガラ製造工程で区分けされた建物が展示されている。
ベンガラ:酸化鉄顔料では最も生産量が多い。日本では、江戸時代にインドのベンガル地方産のものを輸入したために(天竺国であるベンガルの地名が起源)「べんがら」と名づけられた。天然に産するもの・赤鉄鉱もあるが、現在市販されているベンガラ・弁柄は合成されたもので工業用ベンガラである。Color Index Generic Nameは合成酸化鉄赤が Pigment Red 101 で、天然酸化鉄赤が Pigment Red 102 である。化学組成は鉄の赤錆と同様といえる。硫酸鉄を高温で熱し、苛性ソーダで中和したものである。
弁柄を作るにはおよそ次のような工程がある[3]。1.鉄鉱石を砕く。.2.硫黄分を除く。3.不純物を沈殿させ、「緑礬」(ろくは)という結晶を作る。4.朴の葉に緑礬を盛る。5.松の薪で2日間、700度で焼き続ける。6.水洗いして石臼で粉にする。7.これを3度繰り返す。8.粉の中の酸を水に溶け出させる。9.弁柄の成分が沈殿。10.上澄みを捨て、水を入れる。11.これを10回から100回繰り返す。12.板に塗りのばし天日干し。(ウィキペディアより)

釜揚室。

ベンガラの原料・生成物が展示されている。

水洗碾臼室。

脱酸水槽室。

ベンガラ館の近くにある笹畝坑道に到着。
江戸時代から大正時代まで操業した銅山を復元し、坑内を見学できるようにしたものです。冒険心をそそる神秘的な坑内は、年中15度前後と天然のエアコンが効いています。吉岡(吹屋)銅山は、大同2年(807年)に発見されたと伝えられ、古書に備中の産物に関する記載があり、吹屋の銅山としての記録は、戦国時代尼子氏と毛利氏の争奪戦以来、江戸時代初期一時、成羽藩の支配下にありましたが、大部分の間は、天領幕府直轄地で代官の支配下で稼いでいました。
明治以降三菱金属(株)の経営となり、周りの小山を吸収合併し、自家発電所を設け、削岩機を使い精錬等の作業を機械化し、日本ではじめて洋式溶鉱炉を造り、日本三大鉱山の一つとなりました。この鉱山は笹畝(ささうね)と称し、支山(しざん)でしたが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡し、黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出されていました。特に、江戸時代には、この地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用して大阪の銅役所へ運ばれていました。(高梁市観光ガイドより)

ヘルメットを着用し坑道に入る。

中は湧き水が滴り、ひんやりとしている。今日は暑くなってきたので気持ちがいい。

証明に照らされた部分は光合成ができ、コケ類が生えている。

身を屈めて狭い坑道を行く。

 ようやく広い場所に出る。

作業中の、江戸時代のオトウサンとオカアサン。

かなり上のほうまで採掘がされている。

こちらは下に掘られた斜坑。
傾斜している坑道。垂直な竪坑と水平な横坑に対応する。鉱山の坑口から地下鉱床に達するために掘った恒久的なものと,トンネル工事の種々の作業のために掘った仮設的なものとがある。(コトバンクより)

網の上越にスマホを掲げ下を撮影。

 坑道の最深部。ここで引き返す。

作業中のオニイサン。

出口は入口とは別になっている。かなりの急階段。

階段の上から、坑内を見下ろす。

出口に向かう。

坑道出口。

入口が下に見える。出口はかなり高いところにある。

最後のスポット広兼邸に到着。ここまで上り坂が多かった。時間的に歩いては無理だっただろう。
享和、文化の頃(1800年ごろ)小泉銅山とローハ(硫酸鉄)の製造を営み、巨大な富を築いた大野呂の庄屋・広兼氏の邸宅です。江戸末期に建てられた、楼門づくりで城郭にも劣らない堂々たる石垣は、今もそのままに当時の富豪ぶりをたたえています。広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えで今もそのままに当時の富豪を偲ばせている。映画「八つ墓村」のロケが昭和52年と平成8年の二度にわたりおこなわれ、全国に放映された。(高梁市観光ガイドより)

駐車場に自転車を置いて上る。

邸宅というより城である。

邸宅入口。城門を思わせる。

門を入ったところ。庭が広がる。

門の側から下界を見下ろす。右下が自転車を置いたところ。

庭に向かう。滴る水が金属音を奏でる水琴。前回行った、奈良公園にもあった。

茶室と広間。

玄関に戻り中に入る。番頭部屋・下男部屋。

台所といろり。

表に出る。門の上は、不寝の番の部屋になっていた。蓄財が多いので、警戒も強かった。

広兼邸を後にし、ふるさと村に戻る。ふるさと村の東の入口にある紅屋。反対側に、「ボンカレー」の看板がある。

ふるさと村の赤い町並みを上から見てみたいと思い、比較高いであろう神社に向かう。

町の東端にある神社。山神社。神社も赤い。

神社の前から、西方向。

ふるさと村がある東方向。もう少し高くないと見渡せないようだ。

自転車を返却し、帰りのバスまで時間があるので、保存地区を散策。高梁からバスがやって来た。バスはせまい町並みを通る。また、吹屋までの途中、車がすれ違えない狭い道もある。何度か、片方がバックする場面があった。

自転車を漕いでからだが火照っているので、かき氷の暖簾に惹かれて入る。

かき氷みぞれ、¥200。

15:45の帰りのバスを待つ。乗り遅れたら、タクシーしか便がない。バスは、途中まではフリーパスといって、手を上げて合図すると、バス停以外でも停まってくれるらしい。

帰りのバスがやって来た。来るときも一緒だった中国人2人連れがいる。シニア女子が見当たらないが、先のバスで帰ったのだろうか。途中、高梁市立宇治高校の学生が乗ってきた。交通不便な山間にある定時制高校である。

 高梁からと急で岡山まで。岡山で外に出て、今日の風呂に目論んだときわ湯に向かうが、本日も定休日。木~日曜のみの営業。風呂はやめて帰路に着く。

本日の行程。一日中軽い頭痛の違和感はあったが、今日は大事には至らなかった。これで頭痛のシーズンは終わったのか、まだ確信は持てない。

0 件のコメント:

コメントを投稿