2020年3月13日金曜日

吉川元春館跡 (2020. 3.13)

新型コロナウィルスの感染拡大の影響で、長距離移動を伴う遠出は避けて、最近は近場を巡っている。今回は久しぶりに車で回る。北広島の吉川元春館跡を中心に、吉川氏関連の城跡を回る。吉川元春は毛利元就の二男。そういう意味では、吉田郡山城跡から始まった毛利氏関連の遺跡めぐりの一環ともいえる。
吉川元春:父・元就によって藤原南家の流れを汲む安芸国の名門・吉川氏に養子として送り込まれ、家督を乗っ取る形で相続した。以後、毛利両川の一人として、弟の隆景と共に毛利家発展の基礎を築き上げ、主に山陰地方の司令官として貢献した。(ウィキペディアより)

先に年表を整理しておく。
1313年 駿河丸城築城(吉川経高)
1390年 小倉山城築城(吉川経見)*駿河城築城の70年後といいこのでこの年号にしている
1542年 第一次月山富田城の戦い(尼子氏が大内氏を破る。毛利氏は大内氏側)
1550年 日野山城築城(吉川元春)
1555年 厳島の戦い(毛利氏が陶氏を破る)
1566年 第二次月山富田城の戦い(毛利氏が尼子氏を破る)
1580年 吉川元春館築城(吉川元春)

そして、各城跡の位置関係。時代とともに南下している。

吉川氏関連の遺跡を回る前に、テングシデ群落に寄る。浜田道大朝ICで降りて、しばらく走る。

天狗の水。水は流れていなかった。

 テングシデ群落地に向かう。

テングシデ群落。

新緑の頃が見頃。今は芽吹く前で、寒々とした景色。

イヌシデの一変種で、幹や枝が曲がり、枝先がしだれる。突然変異によって誕生したといわれる。普通突然変異によって生まれたものは一代限りで終わるが、このように代々受け継がれるのは珍しい。

園内には立ち入り禁止だが、この遊歩道だけが中に続く。

遊歩道の先から、テングシデを見上げる。

山側の遊歩道を行く。

遊歩道から群落を見渡す。芽吹くときれいだろう。

さて、ここから吉川氏関連の城跡めぐり。コースとしては、築城年代順と反対に、新しいものから回ることになる。最初に、吉川元春館跡。歴史資料館の駐車場に停める。

資料館はコロナウィルスの影響で閉館中。


館跡に登る。右の斜めになった石は、石切り場跡。

石垣。

門跡。

門を入って、殿舎跡。

水溜跡。

唯一復元された台所。

便所跡。

井戸跡。 

庭園。

奥から、館跡を見渡す。
 吉川元春館:中国地方の雄、毛利元就の次男で吉川氏の当主であった吉川元春が天正10年(1582年)の備中高松城の戦いの後、嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居した際に、自身の隠居館として1583年(天正11年)に建設を開始した。この地は吉川氏一族である石経有の所領であったが、それを譲り受けての建設であった。館そのものの細部は未完ではあったが元春はこの館に入り隠居生活を開始する。しかし天正14年(1586年)に建設半ばで元春が九州で死去。翌年の天正15年(1587年)にもこの館の新たな主である嫡子の吉川元長も病死。元長の弟吉川広家の頃に完成を見た。広家が天正19年(1591年)に月山富田城に移ると、徐々に居館としての機能を失い廃墟と化していったと思われる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後の検地帳でも城館跡として記載されている。(ウィキペディアより)

イノシシ避けの電線をまたぎ、奥に進む。

吉川元春墓所。

板塀の間からスマホを突き出し撮影。元春の墓の左は、長男元長の墓。

林を抜けて駐車場に戻る。

吉川元春館跡から来るまで5分。万徳院跡。本堂を復元してた建物がガイダンス施設だが、ここも閉館中。

万徳院跡。
 万徳院:毛利元就の孫にあたる吉川元長が、自らの死後の菩提寺とするため建立した寺院の跡。平成3(1991)年度から行われた発掘調査により、建物跡の礎石をはじめ多くの遺構が見つかった。発掘調査終了の後、町教育委員会によって歴史公園として整備された。中世の庭園が復元されたほか、風呂屋が復元されており、毎月(12月・1月・2月を除く)第3日曜日には、実際に釜を焚く実演が行われ、蒸気浴を体験できる。(北広島町観光情報サイトより

万徳院跡に向かう。

入口の石段。

本堂跡。

復元された風呂屋。湯船の風呂ではなく、蒸気浴。

庭園。

参道を駐車場に戻る。

万徳院跡から車で15分くらい。日野山城跡の駐車場に到着。

本丸まで40分の表示があった。本丸に向かう。

快適な山歩きと思ったら…

沢歩きが始まる。

道標があるのでこのルートに間違いない。

足を濡らさないように慎重に沢伝いに上る。

沢歩きが終わり、山に入る。

登り坂が続く。城跡めぐりと思い、登山は意識してこなかったが、予想外の登山になった。

本丸の道標。

本丸かと思ったが、3の郭 中城・築山。

さらに登る。

6の郭。何番まであるのだろう。

また、本丸の道標。

視界が開けそうだ。

10の郭 大門野原。

13の郭。

14の郭 大広間の段。

本丸へ向かう。なかなか着かない本丸に疲れている。

二の丸への分岐。二の丸は後にして、本丸に向かう。

なんとなく本丸の雰囲気。

またしても期待はずれ。16の郭。

17の郭。

18の郭。

本丸へ。すでに城攻めの気力は失せている。

19の郭 下り丸。

見下ろせばかなりの急坂である。

疲れ切って、本丸へ。

22の郭。

本丸と三の丸の分岐。本丸の文字が大きいので、今度こそと期待する。

たぶん、あの向こうが…

到着。

27本丸。日野山、標高705m。標高差300mくらい登ったことになる。昨日の行者山と同じくらいの標高差。予期せぬ登山だった。
日野山城:1550年(天文19年)に吉川氏の家督を相続した吉川元春は、火野山にあった城を再整備し、小倉山城から移って本拠地とした。元春は城を整備拡張し、元春から元長、広家の3代に渡って拡張整備工事が続けられ、全山が要塞化された。1582年(天正10年)、吉川元春は隠居すると山麓に隠居館(吉川元春館)を築き、そこに住むようになった。元春死後の吉川氏当主も不便な山上の日野山城には居住せず、元春館に居住するようになった。1591年(天正19年)に吉川広家が月山富田城主に任ぜられると、吉川氏の居城としての日野山城の役目は終焉を迎えた。 (ウィキペディアより)

山頂からは眺望はよくない。木々の間に、千代田方面。

北方向。三瓶山?

山頂を下りる。

二の丸に寄って見る。

先ほど行った、吉川元春館跡が見える。復元台所が見えるから間違いないだろう。

ここからは、千代田方面が見渡せる。毛利氏が、有田城の戦いで、安芸武田氏を破り手に入れた地域である。

下山する。

登った沢を下る。

やっと平坦な山道に戻った。

常仙寺跡の階段があるが、登る余力はない。

駐車場に戻る。1時間40分くらいかかった。入口に「本丸まで徒歩40分」とあったが、徒歩でもなく40分以上はかかった。
日野山城には石垣はなく、山の地形を利用した山城だった。急ごしらえの感があり、本丸までいくつもの郭があり、攻めあがるのも難しい気がした。第一次月山富田城で尼子氏に敗れた後の築城であり、尼子氏に攻められる危機感の中での築城だったに違いない。

大朝ICの前のコンビニでパンを買って、車の中で軽い昼食を済ませ、小倉山城跡に到着。大朝ICから遠くない。

広い駐車場に、自分の車だけ。

本丸に向かう。

日野山城に比べれば楽勝だ。

すぐに、二の丸跡。

本丸への階段を上る。

遊歩道が設置されていて歩きやすい。

三の丸・本丸・南側郭の三叉路分岐。

先に三の丸に向かう。

途中にある土塁。

土塁の切れたところにある登城路。

三の丸。

三の丸から本丸を見る。

南側郭に行く。

建物跡。

郭の先端から下を見下ろす。

本丸に登る。

本丸跡。
小倉山城:正和2年(1313年)吉川経高が駿河国吉川邑から安芸国大朝庄に移住し、当初駿河丸城を居城にしていたが南北朝末期に吉川経見が近隣に小倉山城を築いた。以後「鬼吉川」と呼ばれた安芸吉川氏の拠点として栄えた。毛利元就夫人の妙玖(吉川国経の娘)もここで誕生している。吉川元春が天文19年(1550年)に日野山城を築き、居城を移すと小倉山城はその役割を終えた。 (ウィキペディアより)

先ほど苦労して登った日野山。ここに比べると、かなり高い。確かに、登りやすい小倉山城は攻めやすい。ここから日野山を見て築城を決めたのだろう

本丸を下りる。

右に行くと、しょうぶ園ほか遺跡があるが、日野山城で思いのほか消耗したので、今日は左の遊歩道を戻る。

杉林を歩く。

本丸への登城口。

東屋が見える。

一服しようと思ったら、「倒壊の恐れあり」。

池の畔に座り一服する。

入口に戻る。

駐車場前に休憩所があったが、閉まっていた。使用されていないようだ。階段に座りしばらく休み、大朝ICから高速に乗り帰る。

日野山城の登山が印象深い旅だった。今日の行程。

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