2019年3月2日土曜日

有田城・猿掛城 (2019. 3. 2)

最近、ネット動画でNHK大河ドラマ「毛利元就」(1997)を見終わった。昨年2018年9月、元就ゆかりの吉田郡山城に行ったが、ドラマに登場する山城や合戦跡は他にもたくさんあった。厳島合戦跡はすでに訪れた。今日は、元就の初陣の場所になった有田城址と元就が少年・青年期を過ごした猿掛城址を訪れる。
 有田城址は中国自動車道千代田ICを下りてすぐ、そこから吉田の猿掛城址に向かい、最後は「たかみや湯の森」で風呂に入って帰るコース。

 千代田CIを下りて少し戻り、8:30、有田城跡登山道入口に到着。

中腹までは車で登れる。

ここから歩行路。

道案内もあり、登山道は整備されている。

しばらく登る。

 山頂に到着。標高377m、比高(麓からの実高)90m。

 山頂に立つ、有田合戦の説明板。
 有田合戦:戦国時代の永正14年(1517年)に安芸国で起こった戦い。有田合戦とも呼ばれる。尼子氏の支援を受けて安芸国旧守護の勢威回復を目指す武田元繁が、吉川氏の有田城を攻めたことが発端になり、発生した。毛利元就の初陣としても知られる。…
この戦いは後に、織田信長が今川義元の大軍を破った桶狭間の戦いになぞらえて、「西の桶狭間」「西国の桶狭間」と呼ばれ、武田氏の衰退と毛利氏の台頭の分水嶺となった戦いとされるようになった。武田元繁や熊谷元直、香川行景らを失って大きく戦力を削がれた安芸武田氏は、勢力が急速に減退し、やがて毛利家によって滅ぼされた。初陣で旧守護の元繁を討ち取った元就の名は一躍有名になり、京に在陣する義興が出した感状で「多治比(元就)のこと神妙」と評価している。元就はその後、幸松丸の夭折後に当主の座を継ぐことになる。 (ウィキペディアより)

三の丸跡。

見張台だった茗荷丸。

朝霧が深く、眼下は見えない。

少し奥に本丸跡。

本丸から茗荷丸を見る。茗荷丸のほうが、見張台のためやや高いところにある。

落城のときに焼けた米が出土した。

城跡を下りる。

駐車場の横にある、有田神社。

 千代田から土師ダムに南下し、途中から吉田方面に曲がる。約20分で、猿掛城登山道入口に到着。

離合困難な狭い道だが、中腹の駐車場まで行く。
(帰りに、狭い道で離合できずバックしたのが2回あった。教善寺で法要でもあり、その時間と重なったのか。)

駐車場のすぐ横に、毛利弘元とその正室の墓所がある。大河ドラマでは、西郷輝彦と竹下景子が演じていた。

墓所に向かう。

墓所の前には鳥居がある。

毛利弘元の墓。

正室の墓はよく分からなかったが、それらしきもの。

駐車場から、猿掛城址登山道に向かう。

登山道入口の案内。

登山道を登る。

つつましい道案内がある。

寺屋敷曲輪群。寺屋敷跡。この下には現在、猿掛山教善寺がある。

さらに登る。有田城の登山道に比べると雑である。

遺跡らしき石垣がある。

山頂近く。

猿掛城本丸跡。猿掛城という名の城は各地にあり、性格には多治比猿掛城という。
多治比猿掛城:1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。(ウィキペディアより) 

本丸跡の北側に小高い盛土がある。 櫓台として使用したと説明がある。

盛土の上から、本丸跡を見る。

盛土の北側は急斜面。

遠く郡山城を望む。ここと、郡山城を行き来していたわけだ。 ドラマで猿掛城は何度も登場するので、想像が膨らむ。

 本丸跡の南側に土塁。

土塁の下はやはり急斜面。

本丸跡を下りて、南側を下から見る。本丸跡は、登り口以外はみんな崖に囲まれている。実際に戦場になったことはないが、戦いを想定しての城であるのが分かる。
 猿掛城を下りる。

元就らも何度も目にしたであろう眼下の景観。

麓にある教善寺。梅が咲いている。

教善寺のまえに見張り台である出丸跡がある。

出丸跡に登る。

小高い丘になっている。

その突端が見張り台。

多治比猿掛城出丸跡。

郡山城を臨む。

土塁の跡。

出丸を下り、猿掛城を後にする。

郡山城には一度来ているが、大河ドラマを見て思いも深まり、再度、元就らの墓所に詣でることにした。前回は、歴史民俗博物館から歩いて登ったが、今回は途中の駐車場まで来るまで行く。

まず、毛利隆元の墓へ向かう。

毛利隆元の墓。ドラマでは上川隆也。

ドラマでは暗殺になっていたが、ここの説明では「発病」。実際のところは分からないらしい。

続いて、毛利元就の墓所に向かう。

前回も歩いたが、しばらく山道を歩く。

元就の墓の入口。やはり鳥居がある。

墓への扉は施錠してあり近づけない。

鉄扉の上からスマホを伸ばし撮影。

墓の向かいにある、「百万一心」。 前回は余り理解していなかった。
百万一心:「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。吉田郡山城の改築で本丸石垣の普請が難航したときに、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わる。同じく毛利元就の教えとされる三矢の教え(三子教訓状を参照)と共に、一致団結の大切さを訴えた教えとされている。(ウィキペディアより)

元就の墓所の下に一族の墓がある。


毛利一族墓所

裏手に回り写す。

墓の配置の説明。左から毛利興元(ドラマでは渡部篤郎)、幸松丸(興元の長男)、隆元夫人(ドラマでは大塚寧々)。なぜか元就の正室(ドラマでは富田靖子)の墓がない。どうやら墓所が確認されていないらしい。

毛利元就墓所を後にして、山を下りる。前回は、ここから郡山城本丸跡に登山したわけだ。

麓の公園で一休み。向こうにみえるのは、左から青山と光井山、郡山合戦の時、あの山間に尼子軍が陣を張った。
郡山合戦:天文9年(1540年)から天文10年(1541年)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦とも呼ばれる。(ウィキペディアより)

公園から駐車場に向かう。

橋を渡り、郡山城を後にする。

中国道・高田ICの前を通り過ぎ、高宮方面へ走る。高台に、「たかみや湯の森」がある。隣には宿泊施設もある。

入浴料¥700。横になれる休憩所もあり、広々としゆっくりできる。

風呂上りに、昼ごはんのてんぷらうどんを注文する。

時間は午後1時半、今日の予定を終えて、高田ICから高速に乗り帰る。

0 件のコメント:

コメントを投稿