というコースを計画した。ただ、各スポットの移動には時間がかかるので、電車の時間を綿密に調べてから出発した。
新幹線で久留米まで。久留米から在来線でJR大牟田まで。9時前に大牟田駅に到着。
駅前の観光案内所で自転車を借りるつもりだが、開店が9:30なので、駅前をうろうろして時間をつぶす。回転したので電動アシストを借りて出発。
事前に調べておいたスポットはgoogleマップでマイマップを作成し、スマホで見れるようにしておいた。ただし①の三池港展望所は偶然見つけたので後から加えた。
①三池港展望所。
三池港が展望できるだけのもの。特に展示はない。八幡製鉄所跡の展望所と、期待はずれのとこが似ている。ただ、世界産業遺産なので観光ボランティアのおじさんが常駐しており、案内を買って出たが、急ぐので遠慮した。
②三川坑跡。門が閉まっているので空いていないのかと思ったが、右側の入口から入れた。
三川坑:三井鉱山三池鉱業所の一施設で、三池港の近くにある。第一斜坑・第二斜坑とがあり、いずれも坑口は幅約6m・高さ3.3mのアーチ型で、有明海の海底に向かって西へ、傾斜約11度、長さ2km以上の坑道が伸びている。戦争遂行のため石炭増産が求められる中、1937年に建設が開始され、1940年に完成した。戦後復興期には三井鉱山の最主力坑となり、1949年に昭和天皇が入坑するほどであった。1997年3月の三井三池炭鉱閉山後、その施設のいくつかは重要文化財・史跡・近代化産業遺産など文化財として登録されているが、三川坑はその対象とされていない。 (ウィキペディアより)
中には誰もいない。石炭を運んだ貨車が並んでいる。 後から知ったが、ウィキぺディアにあるように文化財には指定されていない。
炭鉱マンの入出坑。
近くには炭鉱マンが使用した道具が無造作にぶら下がっている。
今は扉が閉まっていて中には入れない。
どうしても中が見たいので、扉の隙間からスマホを伸ばし、落とさないように慎重に撮影したもの。下り坂になっているのが海底トンネルへの入口。
ただ、三川坑では最大の炭鉱事故と言われる爆破事故があった。
三井三池三川炭鉱炭じん爆発:1963年(昭和38年)11月9日に、福岡県大牟田市三川町の三井三池炭鉱三川坑で発生した炭塵による粉塵爆発事故である。死者458名、一酸化炭素中毒(別名CO中毒)患者839名を出したこの事故は、戦後最悪の炭鉱事故・労災事故と言われている。 (ウィキペディアより)
③炭鉱専用鉄道跡。三池の各炭鉱を馬蹄形のレールで結び、港で積み込んでいた。
いまは、盛土した堤のように見える。
三池港側。 橋の下は道路が走っている。
専用鉄道をくぐる道路は、市内の各地で見かけた。
④万田抗跡。ここは熊本県荒尾市にあるので、大牟田市発行のパンフレットには載っていなかったが、炭鉱跡見学の目玉としてチェックしてきたところである。
観光案内所は万田抗ステーションとして、展示も行っている。また、10時から1時間おきに案内があるので、希望すれば受けられる。11時台は自分ひとりなので気後れしたが、せっかくなのでお願いした。
案内役のおじいさんに連れられて、炭鉱跡に向かう。この池は、不純物を取り除くためになにかを沈殿させていたと説明されたが、炭鉱自体に詳しくないので、なんのためか記憶していない。自分としては石炭よりも、人間が地下にもぐり石炭を掘るという悲哀に満ちた作業に興味がある。
万田抗跡。
万田抗:石炭は、日本の産業革命を支え、近代日本の礎を築く源となったエネルギーです。荒尾市と、隣接する福岡県大牟田市にまたがって隆盛を極めたのが三池炭鉱。その中心的存在が、明治の頃の技術の粋を集めて建造された日本最大規模の2つの竪坑を持つ「万田坑」でした。1800年代の終わりから1900年代初めにかけて2つの竪坑が建造され、設備や機械も充実し、1900年代前半に採炭は最盛期を迎え、日本の産業振興を支えました。
しかし、1900年代後半に入ると採炭効率が低下。また、世界のエネルギーの主役が石炭から石油に移行したこともあり、1951年に採炭が終了し、1997年、ついに万田坑は閉山となってしまいました。(まるごとあらお・荒尾市観光情報サイトより)
おじいさんが見るように進めたもの。VRではないが、透明パネルに当時の風景画書いてあって、実際の風景と重ねることができる。
ここにもボランティアの方々が待機しておられる。見る人はさほどいないのだが…
事故が多いので、瀬戸内海の大三島・大山祇神社から分祀してもらったという。
石炭や地下水を上げるための巨大なクレーン。
クレーン内部。この竪坑から昇降していた。
おじいさんに勧められた撮影スポット。なかなか気の利いている方だ。
トンテルを出て反対側から。
炭鉱マンたちが作業後に浸かった風呂。
連絡用のベル。鳴らしてみるように勧められた。大きな音である。ベル音の数・パターンで連絡を取り合っていた。
巻き上げ機の説明を受ける。秒速数メートルの速いスピードで稼動していた。説明を受けるにあたり、自分もヘルメット着用。
ここで案内は終わり。おじいさんに三池炭鉱事故のことを聞いてみた。現在81歳、当時20代半ばで、自分も炭鉱で働いていた。そのとき自分は事故のあった炭鉱とは違う現場で働いていたので、運よく巻きもまれずに済んだ。もし、事故にあっていたらここにはいないだろう…
淡々としたしゃべりだが押し付けがましくなく、温かみのある案内でした。ありがとうございました。
あとは自分ひとりで回る順路になっているので、周囲を歩いてみる。
選炭場あと。人力で選別していた。
先ほどのクレーンが何台かあった。第一竪坑坑口跡。
万田抗を後にする。
最後の予定地に向かう途中、例の専用鉄道跡の下をくぐる。
⑤宮原坑跡。ここは大牟田市。
宮原坑:1889(明治22)年に三池炭鉱が明治政府から「三井組」(のちの三井鉱山)へ払い下げられたあとの1895(明治28)年に開削工事を開始し、1898(明治31)年に第一竪坑(たてこう)が、1901(明治34)年に第二竪坑が竣工しました。ここ宮原坑は、当初、坑内の湧水を汲み上げて排水することを主な目的として設置された坑口ですが、この坑口から三池集治監(今の刑務所)に収監されていた囚人たちが採炭作業に従事するようになると、その厳しい労働から別名「修羅坑」とも呼ばれていました。施設は、国指定重要文化財・史跡であり、世界遺産一覧表に記載された「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産です。(大牟田市HPより)
世界産業遺産に登録されており、ボランティアの方が常駐していた。
午後から吉野ヶ里に行くので、時間も気になるが、自分以外にも人がいるので参加した。
万田抗のおじいさんに比べて、「語りたい」雰囲気がみなぎる。学校の先生のように理路整然と 説明される。ちょっと詳しすぎるくらい長い説明。
このゲージに、人や馬が乗り、貨車を載せ昇降していた。
脇にある専用鉄道跡。
クレーン巻き上げ室の中に入る。
ここで秒5~6mの速度の説明を受ける。
深さを示すアナログの目盛板。
おじさんの説明は詳しくて、すべてを記憶できなかったが、面白いと思うことを羅列すると…
① 三池の石炭は地下を海に向かって斜めに埋蔵されている。最初はその地表への露出部を農民が見つけ「火の石」として燃やしたところから始まる。
②明治新政府が、旧藩から二束三文で強制的に買い付けた。のちにそれを高額で民間の三井物産に払い下げる。
③地下水が大量に湧出し、石炭1トンにないしその10倍の水を汲み上げなければならなかった。最初は人力で、100人単位の人が、水車を踏みまわして汲み上げていたが、明治中期、イギリスから蒸気機関を買い、機会で汲み上げるようになった。その機械化の中心になったのが、團琢磨、その孫が作曲家・團伊玖磨。
④労働力不足から、囚人労働・女子労働も行われていた。昭和初期に国によって禁止された。
⑤現在、地下足袋(じかたび)と呼ばれるものは、最初は地下足袋(ちかたび)として、炭鉱労働者のために開発された。その足袋の会社が、石橋足袋店。足袋の生産に必要なゴムの扱いを研究し、タイヤを生産するようになった。石橋=ブリジストン。
⑥人口に膾炙している「炭鉱節」の一節。
「月が出た出た 月が出た 三池炭鉱の上に出た」に三池炭鉱が出るが、「炭坑節」には筑豊版があって、実際にはそちらのがオリジナルらしい。長年論争の的だったが、田川市長と大牟田市長が話し合い、筑豊に軍配があがった。
長々とご説明いただきありがとうございました。
宮原坑跡を後にする。
出発点の大牟田駅に帰る途中。専用鉄道にかかる橋を渡る。
橋の上から、鉄道跡。
宮原坑のおじさんの説明が予想以上に長かったので、駅に戻ったのは午後1時過ぎ。約3時間半の炭鉱巡りとなった。電車を待つ間に、昼ごはんにする。駅構内で唯一食べるところ。「かしわうどん」を注文する。
いったん鳥栖まで戻り、吉野ヶ里に向かう。
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