2019年1月19日土曜日

有田 (2019. 1.19)


 朝6時過ぎにホテルを出る。有田のレンタサイクルは9時から、佐賀から有田行きの特急は8:15なので、その前に佐賀城跡にいくため。

ホテルから南に約30分歩いて佐賀城跡に到着。天守閣は残っておらず、一帯は公園になっている。

これは佐賀城本丸歴史館。

天守閣跡地だろうか、高台に登る。

 佐賀城本丸歴史館を見下ろす。

石垣に沿って南に歩く。

 佐賀城は別名「沈み城」と言って、平城であるため防御のために掘られた幅広の堀に囲まれている。東方面を写す。

反対の西側。
佐賀城:佐賀市の中心に位置し、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城である。幅50m以上もある堀は、石垣ではなく土塁で築かれている。平坦な土地にあるため、城内が見えないように土塁にはマツやクスノキが植えられている。城が樹木の中に沈み込んで見えることや、かつては幾重にも外堀を巡らし、攻撃にあった際は主要部以外は水没させ敵の侵攻を防衛する仕組みになっていたことから、「沈み城」とも呼ばれてきた。また城郭と城下町の完成予想図と思われる「慶長御積絵図」とは本丸石垣の構成や櫓の数など異なる部分が多く、厳密には未完成の城である。(ウィキペディアより)

駅から城跡まで思った以上に遠かったので、帰りはちょうどやって来た佐賀駅行きのバスに乗る。

9時前にJR有田駅に到着。今回有田に来ようと思ったのは、ブラタモリを見たのがきっかけだったが、それとは別に、以前見た韓国ドラマ「火の神ジョンイ」の最後で、主人公の女陶工が日本に連れて行かれるシーンがあり、調べると文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵、韓国では「壬辰倭乱・丁酉倭乱」と言う)のときに多くの朝鮮人陶工が日本に連れてこられ、最終的に陶石の発見された有田にたどり着き、日本の陶磁器生産の発展に寄与したと言う。自分としては、陶磁器自体よりも、それを作り出した歴史と人の営みに興味を持った。

駅前の観光案内所で、電動アシスト自転車を借りる。

係りのおばちゃんに「ご案内は?」と聞かれたので、作成してきたマイマップをスマホで見せると感心していた。ブラタモリで取り上げられた場所と、そのほかのスポットを順番に回ることにする。

韓国ドラマ「火の神ジョンイ」は創作であるが、主人公のモデルになったのが百婆仙という女性。その記念像がある日韓友好の館。場所が分からなかったのでマップにはプロットしていなかったが、町の入口で偶然見かけた。

百婆仙の像。
百婆仙:日本語ではひゃくばせん、韓国語ではべクパソンと読みます。
百婆仙とは、桃山から江戸初期の肥前の陶工の一人で、その中でも特にすぐれた技術を持っており陶工たちの指導者でもあった人物です。豊臣秀吉が朝鮮を侵略した文禄・慶長の役によって、夫の金泰道(キム・テド/日本名:深海宗伝)とともに鍋島藩に連れてこられました。もともとは武雄市内田村で作陶をしていましたが、夫の死後、一族を率いて、有田町稗古場へと移住しました。というのも、武雄地方でとれる土は朝鮮時代に扱っていた土と土質が違ったらしく、より良質な土を求めて有田へやってきたといわれています。有田焼の原料となっている陶石は1616年に朝鮮人陶工・李参平(りさんぺい)によって発見されたのですが、百婆仙も自己の作陶にはその陶石が必要だと考えたのでしょう。こうして百婆仙は有田で製陶に従事し続け、96歳でその生涯に幕を閉じました。(有田観光協会ありたさんぽより)

陶磁器の店がたくさん並ぶ有田の町を、自転車で走る。

①報恩寺。百婆仙の法塔 (百婆仙の碑)がある。

案内図によると、碑は墓の敷地内にある。

②この法塔に刻まれた『萬了妙泰道婆之塔』は百婆仙のこと。

次に、ブラタモリで取り上げられ印象に残った場所を回る。焼き物の釜の煙突が並ぶ。有田の特徴的な風景である。

③石突き場跡。陶石を水車の力で砕き粉にしていた。それを水で練って粘土状の材料にする。陶器は原料が土、磁器は原料が石という違いがある。

小屋を建てた柱の穴の跡。

薄もやがかかりきれいな景色である。

⑨通りに戻る。有田焼の老舗、香蘭社。

⑧香蘭社は磁器のほか碍子(電線とその支持物とのあいだを絶縁するために用いる器具) も作っている。明治時代初期、電線の普及に伴い発展し、その資産が磁器製造にも転用された。

⑦ブラタモリで紹介された、有田の奇跡的な地質。登り窯の設置に適した絶妙な角度の坂道。

登り窯の跡。ブラタモリのシーンと同じ写真が撮れて満足。

④陶山神社に向かう。

参道が踏み切りになっている。

踏切を渡り参道を進む。

神社はあの上。

階段下に置かれた磁器の灯籠。

階段を登る。

鳥居も磁器製。

陶山神社。
陶山神社:応仁天皇を主神とし、陶祖・金ヶ江三兵衛 (通称:李参平) が祀られている神社です。建立は1658年頃といわれています。神社には他では見ることができない、すべて磁器製の大鳥居や狛犬、大水瓶、玉垣など、やきものの町ならではの風情に触れることができます。 (有田観光協会ありたさんぽより)

鳥居に傍の磁器の壺。

神社を下りる。

参道入口の獅子も磁器製。

⑤李参平の碑。町に下りて、しばらく探したが見当たらない。もう一度場所を確認すると、どうやら神社の裏の山にあるようだ。他の人も登っているので自分も登る。

ようやく到着。

李参平の碑。李参平は、有田の「陶祖」と称される。
李参平: 豊臣秀吉が行った朝鮮出兵の際、佐賀藩主の鍋島直茂隊の案内役をつとめ、撤退時に日本へ連れてこられた朝鮮陶工の中の一人です。和名は「金ヶ江三兵衛(かねがえさんべえ)」。磁器生産に適した白磁石を求めて鍋島領内各地を転々とし1616 年、有田東部の泉山で良質の白磁石の石場を発見しました。李参平はここに天狗谷窯を開き、日本初の白磁器を焼成に成功。 これが有田焼の起こりである、とも言われています。有田焼の最大の功労者である彼は、現在も陶山神社に「陶祖」として崇められており、現在も彼の直系子孫は有田に住んでいます。 (「有田焼のすべて」より)

碑の周りにいるのは、みな韓国人である。陶山神社でも、おおくは韓国人だった。

ここまでかなりの坂を登っている。標高は120mくらい。ちょっとした山登りだった。有田の町を見下ろす。

山を下りる。

佐世保本線を横切り、町へ下りる。

⑩トンバイ塀のある裏通り。
 トンバイ塀:登り窯を築くために用いた耐火レンガ(トンバイ)の廃材や使い捨ての窯道具、陶片を赤土で塗り固め作った塀のことです。(有田観光協会ありたさんぽより)

泉山磁石場に向かう。ここから坂道が続く。電動アシストの真価が発揮される。

マップにはないが、途中の高台に神社があった。

石場神社。

李参平の石像があった。

⑫泉山磁石場に到着。一帯は白磁公園になっている。
泉山磁石場:有田焼の原料となる陶石の採掘場。江戸時代初期の1616年(元和2年)、朝鮮人陶工・李参平により発見され、日本で初めての陶磁器が誕生しました。
現在、採掘はほとんど行われていませんが、掘り続けられた山の姿は奇観です。 (有田観光協会ありたさんぽより)

 磁石場に下りる。一山を削ったことになる。

ブラタモリではここを入っていったが、一般には入場不可なので…

採掘跡を ズームアップ。

舗道には磁器の破片が埋め込まれている。

削られた山の跡と陶石生成に一役買ったと説明されたいた、英山。

予定の有田発の電車が13:11。まだ時間があるので、最後のスポット、有田ポーセリンパークに向かうが、なかなかたどり着けない。

試行錯誤の末、ようやく到着。市街地から離れた山の中にあった。

⑪有田ポーセリンパーク。この田舎の山とミスマッチのヨーロッパ風の城。
有田ポーセリンパーク ツヴィンガー宮殿アートギャラリー:ドイツ・ドレスデンのツヴィンガー宮殿を再現した有田焼のギャラリーです。宮殿内部には幕末から明治期にかけての第二次輸出期の作品を展示されています。400年におよぶ有田焼の歴史の中でも重要な作品の数々、その存在感を充分に体感できます。また、1870年代のウィーン万博に実際に展示された大花瓶(182㎝)は必見です。(有田観光協会ありたさんぽより)

展示場を探して城に行く。

城門を通過したところ。宮殿の庭。

展示場は城門の横に入口がある。入場料\500。

急ぎ足で見て回る。

見事な大花瓶。

これが、1870年代のウィーン万博に展示された大花瓶。ここに来たのはこれを見るため。ブラタモリで説明されていたように、継ぎ目のふくらみが確認できる。記念に撮影。ここで、他の観光客に「撮影禁止」と指摘される。「すみません」と誤ったが、実は知っていたので、確信犯。撮影するために気づかない振りをする戦術だったのだ。

宮殿を後にし、観光協会に自転車を返す。約3時間半のサイクリングだった。

昼ごはんを食べるとこもなかったので、コンビニで買ったおにぎりを駅のホームで食べる。結果的に、今日はきちんとした食事をとらず、腹が減るとコンビニで菓子を買ってしのいだ。

次の目的地、肥前鹿島に行く電車を待つ。

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