2019年1月18日金曜日

吉野ヶ里遺跡 (2019. 1.18)


14:40、吉野ヶ里公園駅に着く。大牟田からは、鳥栖で鹿児島本線から長崎本線に乗り換える。佐賀県周辺は、鹿児島線・長崎線・佐世保線・唐津線・大村線・伊万里線などが入り組んでいて、電車に乗るたびにマップで路線を確認することが多かった。

公園入口まではしばらく歩く。

吉野ヶ里歴史公園に到着。実は、20数年前に一度来たことがあるのだが、そのときは、ただ広い弥生時代の遺跡、のどかな稲作時代の跡くらいの認識しかなく、あまり記憶がない。確か歴史公園はなかった。その後の発掘や考証で、リニューアルした。弥生時代の遺跡も、単なる集落の跡ではなく、組織化されたクニの遺跡という視点で、今回は見て回ることにする。

こんな立派なゲートもかつてはなかったと思う。入場料はシルバーで\200。入口のおねえさんに証明書をみせようとしたら、自己申告でいいとのこと。

橋を渡って遺跡集落ゾーンに入る。

遺跡入口。

集落には敵の侵入を防ぐため溝が掘られている。環濠集落という。

入口でもらった園内マップを携帯し、逐一場所を確認しながら歩く。遺跡ゾーンは、大きく分けて、①南のムラ ②倉と市 ③南内郭 ④北内郭 ⑤甕棺墓列 ⑥北墳丘墓 の6つに分けられる。遺跡ゾーン以外に、各種の公園広場があり、広大な敷地である。今回は時間もないので、遺跡ゾーンのみをコンパクトに回る。
紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています。これらは日本の様子を記した最古の記録である魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています。(吉野ヶ里歴史公園HPより)

縄文時代:縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。ここに人が生活し始めた大きな理由として、この地域が海と近かったことがあると考えられている。最終氷期が終わり温暖となった縄文時代前期には、縄文海進と呼ばれる海面上昇があり、有明海は吉野ヶ里丘陵の南端付近まで広がり、遺跡から2-3キロメートルほどの距離にあったと推定されている。有明海は干満の差が平均で5-6メートルと大きく、また遠浅の干潟を持つ。この干満の差や筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられている。
弥生時代:紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。
前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い憤丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。
後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される 。(ウィキペディアよ)

①南のムラ:庶民の暮らすゾーンである。
 集会やお祭りが行われた広場。

ムラの住居。

住居の内部。

周囲には畑が広がる。

向こうに見えるのは、南内郭。

②南内郭:ムラとは厳格に仕切られている。
櫓のある門が構えがある。

櫓煮に登り、入口を見下ろす。当時の兵士もここから見張りをしていた。

ここにも住居がある。入口にいた係りのおばさんに聞くと、ここはリーダー格の者が住んでいた地区であるとのこと。ムラの住人とは身分が違う。厳格な身分制度があった。なお、施設の各所には、オレンジ色の古代人衣装を着た係員が立っていた。入園者はまばらなので、暇そうだったが…

武具が展示してある。

王の家。

内部、王様はこんな格好だったのか。

煮炊きの家。炊事場である。

南内郭には櫓が4つあるが、うち2つは登れる。

その一つに登る。

櫓から集落を見下ろす。

向こうに見えるのは北内郭。

南内郭じたいにも環濠がめぐらされている。全体の環濠もあったので、二重の環濠になる。

倉と市ゾーンに向かう。

③倉と市
稲穂の倉。

武器の倉。

内部。矛や槍が並んでいる。

市長(市の管理者)の家。ここで商談など行われた。

他に多くの倉がある。いわば、クニの経済省にあたる地区である。

④北内郭:政治や儀式が行われた。

戦国時代の城の門のように、進入を坊行するため、敢えて道を曲げてある。

主宮殿。集落の中心をなす建物。中に登れるようになっている。

2F。会議が行われた。

3F。儀式が行われた。稲の借り入れ時期、戦争の占いなど、未来の予測事項に関しては、神がかりになったシャーマンのの口から出た結果が、2Fの王に連絡され、命令を王が発する、宗教と政治の連携システム。

北内郭を出て、古代人にと手は重要な「死後の世界」のゾーンに入る。

⑤甕棺墓列:墓も庶民と王族で厳しく区別されている。向こうに見えるのが王の墓を埋葬した墳墓。それに比べ、ここの墓列は質素である。

小さく盛り上がったところに甕棺が埋葬されている。

 後で見た王族の甕棺に比べ、小さいものである。

⑥北墳丘墓:王族の墓を埋葬するところ

後の古墳を思わせる墳丘。「登れません」

裏側が入口。博物館になっている。

 展示されている甕棺は実物とのこと。

詳しく観察して回る。

 埋葬を復元したレプリカ。

時刻は午後4時過ぎ。吉野ヶ里に日が傾いている。閉園は5時、まだ時間があるので、ゆっくり入口に向かう。

竪穴住居の休憩所。

弥生時代の家に、自動販売機がある。

せっかくなので展示館に入る。

資料が整然と展示してある。

「首なし人骨」。戦いの犠牲者の遺骨。説明によると、死後に切断された。また武器は、探検などの小型で鋭利な金属器が使用されていた。

その武器の展示。この時代の遺跡を見ていつも想像する。どのようにして、最初の戦争が始まったのか。 狩猟採集の無所有の時代から、穀物栽培の結果による財の所有の時代の移行期に起こったのは間違いないが、最初に「人を殺す」という方法を考え実行した人物とはどのような人だったろう。動物が動物を殺すように無意識だったのか、あるいは殺害による怨念の発生を覚悟した上での、意識的な行動だったのか…

巨大な甕棺が並ぶ。

その端に小さなもの。子供用だろう。

左は庶民の衣装、右が王族の衣装。

入口に戻る。時刻は午後4時半、約1時間半で回ったことになる。確かに、のどかな稲作の集落ではなく、厳しい身分制度、厳格な役割分担、高度に組織化された戦闘集団の一面を持つ集落の遺跡だった。

今日の温泉、武雄温泉に向かうため、JR吉野ヶ里公園駅に戻る。

吉野ヶ里公園駅から武雄温泉駅に行くには、佐世保線直通もあるが、自分が乗ったのは長崎行きなので、2つの路線の分岐駅である、肥前山口で乗り換える。「早岐行き」が来た。聞いたことがない駅なので調べたら、佐世保線と大村線の分岐駅で交通の要衝の駅。
18:20、佐世保線・武雄温泉駅に到着。翌日、この駅は何回か通過するが、車窓から見えた工事は、何年か後に開通予定の西九州新幹線の工事であった。いずれ長崎・佐世保も特急でなく新幹線でいけるようになるだろう。

武雄温泉元湯までは、歩いて約15分。ここが一般の大衆浴場である。

入浴料は\400と安い。

浴槽は2つのみ。サウナ・ジェットバスなどはない。ぬるめの湯と熱めの湯のみ。熱めの湯は源泉に近い温度で45℃。確かに熱く、長い時間は使っていられないが、体が芯から温まった。

ここは鍋島藩御用達の温泉で、このような立派な構えになっている。すっかり温まったからだで、駅に戻る。

武雄温泉は特急みどり(佐世保線を走る特急の名前)が止まる駅。

宿泊地の佐賀まで特急料金を払って乗る。乗車運賃よりも、距離で段階的に決まっている特急料金のほうが高かった。利用者は多い。

午後8時前、佐賀駅に到着。佐賀に着くまでの車窓から夜風景、特急が止まる大きな町以外には明かりが少なかったこと。

駅前のラーメン店で夕飯。ここで言う佐賀ラーメンは、甘めのとんこつだった。

今夜のホテルは丸亀に続き、アパホテル佐賀駅前中央。チェックイン予定は8時にしておいた。最近は、遅めのチェックインで予約する。遅いのが早くなるのは問題ないが、早いのが遅くなるとキャンセルと誤解されないかと慮ってである。宿泊料はなんと\13000。今までで一番高い。宿泊1週間前に見たときは、いつもの4~5000円台が空いていたが、天候や休みの急変更を考えて、早くても2日前予約を常にしている。宿泊曜日が週末金曜日のためか、空室が検索で無くて、しかたなく高額の部屋にした。料金は、曜日や宿泊人数などで変動するようだ。ただ、喫煙可の部屋だった。そのため空いていたのかもしれない。

ホテルの窓から佐賀の街を移す。車窓からの夜風景を思うと、ここは灯りが多い。

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