昨年(2018)、吉田郡山城跡や宮島博打尾など、毛利元就ゆかりの地を回った。今年になって、youtubeでNHK大河ドラマ「毛利元就」を見て、広島県内近くに、たくさんの山城跡があるのを知った。毛利元就の安芸統一に関連する城跡という意味では、これまでそういう知識を持たず訪れた、城山(門山城)、備中松山城、神辺城跡も毛利元就関連山城シリーズに含まれる。
今回は、広島市安佐南区にある、佐東銀山城跡。
9:40、JR可部線の下祇園駅で下りる。
安佐南区のHPにあったこのマップを参考に歩く。
登山口のある武田山憩いの森まで、ずっと坂道が続く。今日は調子が出ない。公園に着いた頃には、すでに息切れしている。足も重い。標高は100mになっていた。
公園の奥に登山道入口がある。違う方向から降りてきた、中年男性と挨拶を交わす。 自分が頂上まで登ると告げると、「かなり急ですよ」とアドバイスを受ける。
佐東銀山城:現在、武田山と呼ばれる標高410mの山頂を中心とし、周辺の尾根に50以上の曲輪を持つ巨大な連郭式山城であった。堀切や近世城郭に見られる桝形の原点とも言える巨岩を利用した御門跡などの遺構が存在するも、他の山城に見られるほどの築城が行われた形跡は少なく、自然の要害を利用した山城であった。周辺地域には支城や寺社を配し、防衛網を作り上げていた 。(ウィキペディアより)
鎌倉時代初期、旧祇園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所をしめていました。
こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221年)で手柄をたてた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えれています。銀山城は、これ以後、天文10年(1541)大内氏の命をうけた毛利元就に攻め落とされるまで約300年間、大田川中、下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。
現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡とよばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の枡形の原型として大変貴重なものといわれてます。このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にもきわめて優れており、広島県を代表する中世の山城といえます。(案内板より)
しばらくは平坦な道が続く。シニアの男性とすれ違う。
なんだか堀切のようなくぼみ。戦国時代初期の山城には、防御のための堀切が多い。
この登山の後日、NHKの「歴史ヒストリア」で山城を扱っていた(「山城、戦国を動かす」)。それによると、織田信長以前の山城は、城主と家臣が横並びの並列的な山城であった。信長により求心的な、城主を中心とする階層性の山城に変わった。並列的な山城では、城主と家臣の各拠点は堀切により区切られていた。防御のための堀切が、有事の際の軍事力の連携を阻み、一点集中の攻撃に対しては脆弱であった。浅井長政が織田信長に敗れた小谷城の戦いはその例である。
まずは、最初のポイント「馬返し」を目的に歩く。馬返しとは、そこから先は急峻で馬が入れない地点という意味らしい。
こんなところを馬が登って行ったのだろうと考えてしまうが、当時はこんなにえぐれていなくて、もっと平坦な道だったのだろう。
馬返しに到着。標高は約200m。
今日は登山靴を履きトレッキングポール持参で、山登りスタイルでやってきている。ただ、登山靴が足にこなれていなくて、足先が痛い。
たしかに、ここから先は馬は上れないだろう。
次第に岩が多くなってきた。
御門跡。銀山城の南麓の出入り口にあった門。門といっても、自然石を積み上げたもの。ただし、通路を直角に曲げる、後の城で言う「枡形」の原型があると言う。
御門を抜け進む。
馬返しまでの風景と異なり、岩が目立つ。
千畳敷に到着。本丸があった場所。
周囲に生える、背丈の低い小竹は、弓矢に使ったそうだ。
巨岩の脇を通り…
頂上への分岐に到着。
頂上に向かう。
頂上はすぐ近く。
頂上に到着。
武田山。標高410m。シニアのご夫婦が昼ごはんを食べていた。他にもう一人のシニアが、アンテナの立ちにくいガラケーで苦心されていた。ここに上るまでに、5~6人の人に出会っているから、いわば市民のハイキングコースとして定着している感がある。
頂上からの眺望はいい。大田川、広島湾、似島他の島々が見える。昔は海がもっと近かっただろうから、陸路も海路もよく監視できたと思われる。
「御守岩」と名づけられている大岩。
頂上から一段下がったところ。館跡か。
「鶯の手水鉢」と名づけられた、人工的なくぼみ。用途ははっきりしないが、飲用ではない。
頂上でゆっくりした後、さっきの分岐点まで戻り下山する。下りは、登りとは反対の東山本の登山口まで下りる。
案内表示が各所にあるので迷うことはない。
観音堂跡。
観音堂の近くにある上高間というところ。見晴らしスポットになっている。
画面中央の奥に、厳島が見える。
上高間から下る。
下高間。上高間も下高間も、観音堂の庭園か休憩所兼見張り所のあったところと言われている。
馬場跡。馬置き場があった。
東山本登山口まで530m。かなり下りてきた。
ふもとが見えてきた。
東山本登山口に出る。
出発地点の下祇園駅に戻る。かなりの距離はある。
13:15、下祇園駅近くまで戻る。先ほど上った武田山。約3時間半のウォーキングだった。
毛利元就との関連で言うとと、この城を巡っては1524、1541年、2度の戦いがあったが、毛利軍は最初は尼子側、二度目は大内側として参戦している。当時の安芸地方は、山口の大内氏と出雲の尼子氏の覇権争いの場所になり、毛利氏を初めとする安芸国人衆は、生き残るために、そのときどきで大内側、尼子側と立場をめまぐるしく変えていた。
戦国時代、結果的には毛利氏の支配下に置かれ、元就の隠居城として使う予定もあったが実現はしなかった。広島城が築かれると、その重要性は低下し、関が原の戦いの後は廃城となった。
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