2019年3月7日木曜日

己斐城址 (2019. 3. 7)

先日、毛利元就関連の有田城・猿掛城を訪ねたが、今日は近くの己斐城址を訪ねる。正確には己斐城は4つあるらしいが、今日行くのは、己斐古城と己斐新城の2つ。高須方面から古城に登り、己斐の街に下りて、新城に行くコース。
天気の様子を見ながら、昼前に家を出た。

広電・東高須駅で下車、古城への登山道があるという高須台第一公園に向かう。実は公園自体が標高70mくらいの高台にあり、そこに着くまでにかなり坂を登った。公園近くから、西広島の街を見下ろす。

公園に案内図があった。

公園の奥にある登山道から登る。

すぐに山頂に到着。

案内が立っているから、ここが古城の跡なのだろう。
己斐古城:岩原城とも呼ばれる。以下説明板より
『この山城跡は、自然地形を巧く利用し、地面を平らに加工したり(郭)、深く掘り込んだり(堀切)するなど、防御を固める様々な工夫を施して造られています。このような山城跡は、広島市内から200近く見つかっていますが、大部分は戦国時代(1467~1578)を中心とした時期に造られたものと考えられ、大小の山城がそれぞれの領地を取り囲むように配置されています。 
 この山城の場合は、大田川河口の西端、眼下に広島湾を出入りする船舶を監視することのできる絶好の位置に造られており、当時は麓まで海岸線がせまっていたものとも考えられますので、船着場を伴った水軍城であったかもしれませんね。城主等の記録は残っていませんが、急斜面に造られた数多くの郭が当時の面影をしのばせてくれます。』

すぐ近くに小山があった。

階段があるので登る。

展望台がある。

眺望はなく、北側に見えるのが、おそらく己斐新城がある茶臼山だろう。かなり高いところにある。

目論見としては、ここから己斐の旭日神社裏に出て、下まで下りて、新城の登山道があるという己斐東小学校目指して歩くつもり。

説明にもあるように、かつてはこの下まで海だった。

尾根伝いに歩く。道は歩きやすい。前もって調べた限りでは、旭日神社への道はもっと草に被われていたようだが…

大田川を見下ろす。かつては、街並みの部分は海だった。

神社の裏に出たのかと思ったが、お寺の裏だった。マップで見ると、旭日神社への道はない。おそらく別のルートがあるのだろう。とくにこだわるわけではないので、ここから下りる。

少し雨が降ってきたので、雨宿り。

雨はすぐに止み、下界に下りる。

向こうに見えるのは旭日神社。あの裏側に至る道が、古城からあるのだろう。

古城を下りた地点から歩くこと約20分。己斐東小学校近くに到着。

先ほど登った、古城を見る。ここの標高はすでに100m近くある。

小学校の側に登山道入口があるということだが、一般人は小学校には入れない。

しかたないので、もう一度車道に出て探そうと思ったら、小学校の脇に登山口があった。金網フェンスで仕切られた右側は、小学校への道。

小学校の裏を通り…

階段を登る。今日はいまいちペースが上がらない。登山口に着くまでに、かなり坂を登ってきたのが効いたのか。

コンクリートの階段が終わり、山道らしくなってきた。 休み休み登る。

記念碑らしきものがあるので、城址が近くなったのだろう。

ロープの張られた細い道を登る。

二の丸跡・空堀跡に着いた。

茶臼山頂上。標高200m。正式には、小茶臼山というらしい。大茶臼山が、己斐峠を越えた五月が丘の近くにある。

本丸跡。

説明板がある。
己斐新城:別名、平原城という。以下説明板の一部。
『平原城跡は中世の山城跡で、己斐にある四城跡の一つであり、地元では平原城跡、一般には己斐城跡・己斐新城・茶臼山城跡の名で知られている。構築の歴史は鎌倉時代中期までさかのぼると推定され、厳島合戦(弘治元年・1555)当時まで要衝として争奪の渦中にまきこまれたが、以後は廃城となった。その間、永世12年(1515)武田元繁に包囲された時、「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(房顕覚書)と記されており、その頃堅城を誇っていたのである。当時の城主は、己斐豊後守師道入道宗端であった。
「残る名に かなえば何か 惜しむべき 風の木葉の 軽き命を」(陰徳太平記)
の辞世の歌を残し、有田の戦で討死したが、勇猛と義に厚い武将として著名であり、その死が惜しまれた。その子・己斐豊後守直之は厳島合戦のとき、要害山・宮ノ城にたてこもった毛利方の猛将として名を知られ、さらに己斐利右衛門興員は、後に広島城(鯉城)二の丸御番をつとめた。
 城は南側を大手、北側を搦手とし、山頂部には本丸・二の丸・空堀があり、山頂部を同心円形に囲んだ北・東・南・西の四郭および縦堀が、昔の姿を残している。山腹に残されていた出丸跡や、ノミ跡のあった岩は宅地造成で惜しいことに、その姿を失ってしまった。
 「平原・岩原、この二墟を茶臼山と称す」と芸藩通志に書かれている「岩原城跡」は、旭山奥に今もあり、「ふるじょう」と呼ばれている。当城跡背後の大茶臼は「立石城跡」であり、さらに己斐峠をおいて左方に「柚ノ木城跡」が見られる。
 茶臼山は己斐の要の位置を占め、且つ昔は東・南側とも山麓まで海が迫っていた。城跡山頂に立つ時、「平原城は大田川口を扼す海城的性格をもった山城である」という立地条件が、よく理解出来る。』
*太字の部分、これまで歩いた山城に関連あるもの。

己斐城跡の石碑が立つ。

大田川と広島の街並みを見る。かつては、ここから船の往来を監視していたのか。

本丸から二の丸を見下ろす。

本丸を後にする。

登るときやり過ごした分岐点に入ってみる。縦堀跡。縦堀とは城に対して垂直に掘られた堀のことだが、どこが堀に当たるのかよく分からなかった。

その先に開けた平地がある。

南郭跡。櫓台があったのか。

本丸を見上げる。

沼田別れ交差点まで下りて、帰りは西広島駅までバスに乗る。本数は多い。

JR西広島駅のホームから、己斐新城の城址がある小茶臼山を臨む。かなり登った。

約3時間の山歩きだった。

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