で、筑豊炭田関連のスポットも含めて、次のような行程を考えた。
①広島~小倉 新幹線
②小倉~黒崎 鹿児島本線
③黒崎~筑豊直方 筑豊電鉄
④直方~飯塚 福北ゆたか線
(飯塚でボタ山と嘉穂劇場)
⑤新飯塚~田川伊田 田川後藤寺線
(田川伊田で石炭記念公園)
⑥田川伊田~行橋 平成筑豊鉄道田川線
⑦行橋~下曽根 日豊本線
(下曽根で風呂)
⑧下曽根~小倉 日豊本線
⑨小倉~広島 新幹線
と、なんとも豪華な?乗り換えコースとなった。おそらく時間の半分は車中になる。
ちなみに、飯塚までは、折尾経由の福北ゆたか線で、小倉から乗り換えなしで行けるが、敢えて黒崎で下車し乗り換える。また、福北ゆたか線は、福岡・北九州・筑豊を結ぶので、その名称になった。小倉から飯塚経由で博多行きになる。慣れないと博多行きが2種類あるので戸惑う。
JR黒崎駅で降りる。
筑豊電鉄に乗り帰る。
自分が乗ったのが楠橋止まりだったので、楠橋で筑豊直方行きに乗り継ぐ。
終点の筑豊電鉄の筑豊直方駅に到着。
寂れた商店街を通り抜け…
JR直方駅に着く。
福北ゆたか線、博多行きに乗る。
乗り換え時間もあり、10時半頃JR飯塚駅に着く。実は、うかつにも新幹線小倉で乗り過ごし、博多から引き返したので、予定よりは4~50分は遅れただろう。
飯塚の忠隈ボタ山に関しては、このページからマップをプリントし携帯してきた。
遠くに忠隈のボタ山が見える。
忠隈炭鉱のボタ山: 炭鉱町として発展した飯塚にその時代の面影を残す数少ないものが、旧住友忠隈炭鉱のボタ山です。高さ141メートル敷地面積22.4ヘクタールあり、現存する平地ピラミッド型ボタ山としては日本最大級。別名「筑豊富士」とも呼ばれ地域のシンボルとして残っています。
「ボタ」とは、九州地方の炭坑で使われた言葉で、選炭し後に残る石や質の悪い石炭のこと。それらを半世紀近く積み上げて出来たこの山は、10トントラック70万台分の量が現在3連の山として残っています。炭鉱全盛期の頃は不夜城のように照明が灯り稜線が日に日に高くなるのが見られました。(飯塚観光協会HPより)
おそらく昭和30年代、炭鉱があった頃のボタ山と飯塚駅。(ネットから)
携帯のマップを便りに、ボタ山の麓に向かって歩く。ただ寒い。おそらく昼間は暖かくなるだろうと、ジャンバーを着てこなかった。見込みがはずれて冷たい風が吹く。結局、一日中寒かった。暑ければバッグにしまえばいいものを、上着を着てこなかったことの後悔する一日だった。
福北ゆたか線の踏切を渡る。
桂川方面(博多行き)
旧上山田線の平常駅跡。1988年廃線。上山田線は筑豊本線の飯塚と日田彦山線の豊前川崎駅を結んでいた。
菜の花と桜のツーショット。
携帯のマップには載っていないが、神社の鳥居が見える。
後で調べたが、皇大神宮。
桜の向こうにボタ山。
廃屋とボタ山。
続いて、マップの順路を辿り、忠隈宝満宮。
炭鉱ボタ石が飾ってある。こんな石が積み上げられて山になった。
いちようgoogleマップには載っている、岡崎ストア。閉まっている。このひっそりした町のたたずまいが、炭鉱跡の町並みのを物語る。かつては賑わったのだろう。
ボタ山の飯塚富士のきれいな形が見える。
巻き上げ機跡の角を曲がる。
山の神公園。
炭鉱跡の碑が建つ。
公園からボタ山を見る。
公園から飯塚市街地を見る。
現在は嘉穂幼稚園になっている、旧住友忠隈炭鉱開館。ここで引き返す。
先ほどは気づかなかったが、ボタ山に入る入口。「立入禁止」だが…
こっそり入ってみた。
もう普通の山である。ボタを積み上げてできたものとは想像しがたい。
山が見上げられるところまで行き、引き換えした。探せば登る道はあるのだろうか。
少し移動し、忠隈病院跡地に上がる。上は、広い空き地だった。
空き地からボタ山を見る。
携帯マップで見ると、病院跡近くに石炭運搬軌道跡があるので、しばらくうろついてさがした。おそらくこれだろう。
トンネルの反対側から。
軌道跡は住宅地を通っている。
うろうろしている自分に興味をもたれたのだろう。ここで、
「観光で来られたの?」
近所のおばちゃんが話しかけてきた。軌道跡の住宅地はかつては炭住だったとのこと。住宅地から続く軌道跡の名残。
このこんもりした場所から地下にトンネルが続いていたとのこと。向こうは、先ほど登った病院跡地。
おばちゃんは、炭鉱跡だけでなく、炭鉱マンだった父とその娘だった自分のことも話してくれた。
「病気の自分を父が背負って、すぐそこの病院に連れて行った。あの階段を登るのは大変だったろう。」
理由は語らなかったが、「父が炭鉱で働くのはいやだった」
自分が短期間にボタ山が緑の山になったのを不思議がると
「たぶん何かしたのじゃないか。むかしはトロッコがボタ山に登っていた。」
最後に、自分が筑豊は小説の舞台になった(五木寛之「青春の門」) と言うと
「あれは田川の話だから…」
と複雑な表情だった。後で田川の石炭公園を訪れて、そこが観光地化されているのを知った。それに比べて、飯塚の炭鉱跡は放置されていて、訪れる人も珍しい。そんな背景があるのだろう、と自分は考えた。
おばちゃんにお礼を言って後にした。
飯塚での次のスポット嘉穂劇場に向かう。途中、気になる土手があった。三池炭鉱跡でも見たが、軌道跡地のような気がする。
がんばって行って見る。異様に広い空き地。軌道跡かどうか分からないが、炭鉱関連施設の跡だろう。
3連のボタ山がよく見える。
嘉穂劇場に向かい、飯塚橋を南から北に渡る。橋の上から、川の上流方向。このときは遠賀川かと思ったが、嘉穂川。しばらく流れた後、遠賀川と合流し、合流後は遠賀川になる。
嘉穂劇場に到着。公園は年に50日くらいで、それ以外の日は見学用に公開されている。入場料¥400で中に入る。自分がボタ山のほうから歩いてきたと言うと、切符売り場のおばちゃんが「寒かったでしょう」と言う。確かに上着を着ていない自分は寒そうに見えるのだろう。実際、寒かった。
嘉穂劇場は火災や水害など苦難の歴史を辿るが、名だたる俳優や芸能人が興行する劇場である。 嘉穂劇場HPやウィキペディアに詳しい。
中に入る。全館撮影OK。
客席から舞台を見る。
舞台には、コスプレ用の衣装が展示されている。
舞台から客席を見る。
金比羅の芝居小屋にもあったが、廻り舞台の奈落。
文字通り、奈落の底?を行く 。
花道に出る。
通路には歴代のポスターが飾られている。
懐かしいところでは、美空ひばり他。みんなここで公演している。
最近では、自分も一度コンサートに行ったこともある喜多郎も。
順路に従い、2階に上がる。2階客席から見下ろす。
2階展示室。チケットやプロマイドが展示されている。
山口百恵の引退コンサートのチケットも。
嘉穂劇場を後にし、次の電車に乗るために、JR新飯塚駅に向かう。
嘉穂劇場から少し歩いたところ、川辺に下りると、女性歌人、柳原白蓮の歌碑が立つ。時間があれば、飯塚のもうひとつの観光スポット、旧伊藤伝右衛門邸に寄るつもりだった。伊藤伝右衛門は炭鉱夫から身を起こした炭鉱王で、白蓮は心ならずも家の都合で伊藤伝右衛門の妻になり、約10年を飯塚で過ごした。旧伊藤伝右衛門邸はここから歩いてかなりあるので、今日はパスした。
欄干のない橋。これも沈下橋というのだろうか。橋を渡る。
東町橋を渡り、そのまま新飯塚駅に行こうかと思ったが、橋の上からの眺めがいいので、中洲に下りる。ウォーキングコースになっている。
しばらく歩くと芳雄橋の中央下から、橋に上がれるようになっている。右が嘉穂川、左が遠賀川。この先で、2つの川が一つになる。
芳雄橋の上から遠く、ボタ山を臨む。
新飯塚駅に到着。田川後藤寺線は1時間に1本。ちょうど出た後なので、50分くらい待つ。
飯塚での行程。
14:49の田川後藤寺行きに乗る。
田川後藤寺駅に到着。奥が、今乗ってきた田川後藤寺線。手前が、これから乗る日田彦山線。
田川後藤寺線の車内でハプニングがあった。花見の後だろうか、新飯塚で老人の年寄り軍団が乗ってきて、自分がいる席に相席になった。あろうことか、そこでも酒盛りを始め、自分にも勧める。断って居眠りの振りをしていたが、「筑豊のことを知らない…」など、話は炭鉱のことになっているようだ。これも、筑豊の風景かと思っていたら、前のおじいさんが自分のズボンに酒をこぼした。乾かすからと席を立って、他の席に移った。反対側に座っていたおばちゃんが気の毒そうに見ていた。
「ごめんね。囲まれてかわいそうだから、声を掛けて呼んであげようと思っていたのに、遅かったわ…」
親切なおばちゃんたちだ。
「ありがとうございます。自然に乾きますから」
記憶に残る?田川後藤寺線になった。
日田彦山線で1駅の田川伊田駅に向かう。
15:30、田川伊田駅に到着。行橋行きの平成筑豊電鉄は、次が16:30。これも1時間に1本で、1時間で手短に回るか、2時間でゆっくり回るか悩んだが、寒いので、1時間コースにする。田川伊田駅は、リニューアルに向けて改装工事中。ここに限らず、門司港駅をはじめ各地の駅がモデルチェンジされている。
駅裏を早足で、石炭記念公園に向かう。
公演入口にボタ石の展示。
公演の一部は広いグランドになっている。象徴的な2本煙突と竪坑櫓が見える。
まず煙突近くに行く。
裏側から、1本を見上げる。
横がボタ石を積んだ坂になっており、坂道を登る。
頂上には、韓国人徴用犠牲者の碑。太平洋戦争中、多くのアジア人が炭鉱労働のため、強制連行された。
頂上から、2本煙突と、その間に櫓。
下りて、石炭歴史博物館脇までいく。
これは三池港で石炭運搬に使用されていた貨車。
竪坑櫓。竪坑は地下360mくらいあった。
竪坑に人をおろすゲージ。
櫓を見上げる。
時間がないので、博物館はパスしようかと思ったが、柵越に見えた炭住跡の展示が見たくて、入ることにした。入場料¥400が、シルバーで¥280。
館内展示。
上半身裸の女性坑婦が痛々しい。
地下の採掘現場。
お目当ての炭住跡は屋外展示。外からは外観だけで、入場しないと詳しくは見れない。
明治時代の住居。
この頃は共同炊事場。
大正時代の住居。
炊事場は屋内になった。
便所は共同。
長屋形式の炭住。
石炭を蒸して煙と臭気を取り除いた「殻」が、燃料として配給されていた。
昭和の住居。本物のおばちゃんがいるのかと、一瞬びっくりした。
旦那は食事中。この頃になると女性の炭鉱労働は法律で禁じられ、女性は家事に専念した。
館内に戻る。飯塚のおばちゃんとの会話にも出た、「青春の門」の映画ポスター。
展示室には、元炭鉱夫だった山本作兵衛氏の炭鉱記録画も展示されており、著作権の関係で撮影禁止。
山本作兵衛:1892年(明治25年)、福岡県嘉麻郡笠松村鶴三緒(現・飯塚市)生まれ。7歳から父について兄とともに炭鉱に入り、立岩尋常小学校を卒業後、1906年(明治39年)に山内炭坑(現・飯塚市)の炭鉱員となった。以後、採炭員や鍛冶工員として、筑豊各地で働きながら、日記や手帳に炭鉱の記録を残した。福岡県田川市にある炭鉱事務所の宿直警備員として働き始めた60代半ばに、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と絵筆を取るようになり、自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱の様子を墨や水彩で描いた。余白に説明を書き加える手法で1000点以上の作品を残した。主要作は画文集『炭鉱に生きる』(1967年)。「ヤマの絵師」として知られた。1984年(昭和59年)、老衰のため死去、92歳没。 (ウィキペディアより)
山本作兵衛氏の記録画を題材にした博多人形。
記念館を出る。炭坑節発祥の地の記念碑。一時、炭坑節の発祥が、大牟田と田川でもめたが、結局、田川が発祥の地と認定された。「あんまーり煙突ーが高いのーでー…」の煙突は、あの2本煙突のこと。確かに高い。
炭坑節の歌碑。
炭鉱夫たちの彫像。
公演から見る田川市街地。奥の2連山と、何かの採掘場か、平坦な山が印象的。
16:30の電車に乗るために、駆け足の見学を終え駅に向かう。
田川伊田駅、右がJR日田彦山線、左が平成筑豊鉄道。工事中のため、平成筑豊鉄道切符売り場は使用できず、料金は車内で払う。
ホームから、石炭記念公園を見る。
16:30、行橋行きの列車に乗る。
平成筑豊鉄道は単線ディーゼル。多くは山間部を走る。これは崎山という駅。
50分で行橋駅に到着。降りた同じホームがJRに繋がる。意図したわけではないが、結果的におじさんがカメラ目線になった。
小倉方面行きの電車に乗る。下曽根駅で降りるつもりだが、寒いのでこのまま小倉まで行きかえろうかとも思うが…
やはり下曽根駅で降りる。寒い中、温泉の湯に浸かって暖まりたい一身で歩く。歩くこと約20分で、パビリオ曽根の湯に到着。
前回の福岡街歩きの最後に行った、パビリオ陣の原の湯の姉妹店である。
今日も満足な食事はしなかった。せんべいとおにぎりで済ませている。風呂上り、てんぷらうどんを食べる。
風呂で体を暖め、再び歩いて下曽根駅に戻ったころは、すっかり暗くなっていた。
今日の路線図。予定通り、列車を乗り回した。
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