2019年12月8日日曜日

鏡山城・槌山城 (2019.12. 8)

これまで、吉田郡山城有田城、猿掛城と毛利元就ゆかりの城跡を回ってきた。主なもので残っているのが、西条の鏡山城と槌山城。今回登ることにした。

車で自宅を出発し、志和インターから西条バイパスを走り、鏡山公園に到着。

国指定史跡・鏡山城跡。
 鏡山城:安芸国西条にある山城で、安芸支配を目論む周防・長門の大内氏が長禄・寛正年間(1457年-1466年)に築城し、安芸支配の拠点とした。鏡山城が築城された頃は応仁の乱により安芸国内も東西に分かれて合戦を繰り返していた。そのためこの城も度々争奪戦の対象となり、安芸の旧守護の安芸武田氏や沼田小早川氏の攻撃を受けている。
時代が下り、大内義興の時代になってもこの城の重要性は変わらず、大内氏の安芸支配の重要拠点として機能していた。しかし出雲の尼子氏が安芸国に勢力を伸ばしてくると、1523年に鏡山城もその尼子氏当主・尼子経久率いる安芸国人衆の攻撃を受けることとなる。鏡山城主・蔵田房信は奮戦し、尼子軍は大きな損害を出した。尼子氏に従属していた毛利氏当主・毛利幸松丸の後見人である毛利元就は計略にて鏡山城を落城せしめ、蔵田房信は自害した。元就はこの戦いにおいてもその勇名を知らしめることとなった。ウィキペディアより)
鏡山城の戦い:大永3年(1523年)6月13日、まだ9歳であった毛利氏の当主・毛利幸松丸の後見人を務める毛利元就は、吉川国経らと共に4,000の軍勢で城攻めを開始した。一方、大内方は蔵田房信とその副将として叔父の蔵田直信が鏡山城に入って、尼子軍を迎え撃った。奮戦する房信は尼子軍を容易に城へ寄せ付けず、戦線は膠着状態に陥った。そこで元就は一計を案じ、蔵田家の家督を継がせることを条件に直信を寝返らせ、城内(直信が守備する二の丸)に尼子軍を手引きさせた。尼子軍の侵入を許した城内は大混乱をきたし、城将・房信は本丸に籠もって最後の防戦を一昼夜続けるが、28日に落城。房信は、妻子と城兵の助命と引き替えに自害した。
落城後に経久は、房信の申し出は承認したものの、直信については寝返りを非難して処刑を命じた。元就は弄した策を反故とされたばかりか、戦功一番であったにもかかわらず毛利氏への恩賞も与えなかったとされる。この攻城戦で、経久は智勇優れた元就を警戒し、元就も経久に不信感を抱いた。(ウィキペディアより)

大池にかかる橋を渡る。

周囲は冬の茶褐色の世界。

鏡山城跡に登る。

AコースとBコースがあるが、距離の短いAコース(直進)を行く。

標高差110mのミニ登山。

堅掘(たてぼり)跡。斜面に上下方向に掘ったもの。攻撃軍が横に移動しにくくする。

頂上まで300m。

堀切跡。

通称、馬のダバ(段場)と呼ばれる曲輪(郭とも書く。城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い)。

下が崖になっている。。

通称、下のダバ。2018年の豪雨災害で各所にシートが掛けてある。

本丸跡に登る。

通称、御殿場。鏡山城で最も高い位置にある郭。

西条市街を見渡す。

 御殿場から本丸を見下ろす。

本丸跡。

 井戸跡。

本丸から馬のダバを見下ろす。

本丸を下りる。

登るときに道なき道を登ったが、この階段を登れば楽だった。

鏡山城を下りる。

公園の一角で一休みして、次に向かう。

鏡山公園から車で約20分。豊穣池の駐車場に車を停める。

これから登る槌山城。

登山入口。

分かりやすい案内図がある。

登山開始。

土砂災害の跡。

頂上まで800m。

道は花崗岩の風化した真砂土。滑りやすい。

鬼が丸城跡への分岐。まず、まっすぐ登る。鬼が丸城跡には下山のとき立ち寄る。

木製階段が整備されている。150段。

階段が終わると、岩場がある。

鬼が丸を見る。

さらに登っていく。鏡山城に比べると、ちゃんとした登山。

頂上まで300m。

2回目の木製階段。

上のほうに白い手すりがある。

展望所かと思ったが手すり付き階段だった。

ロープがある。階段が出来る前は、急な登りはロープを使っていた。

頂上まで100m。

最後の登り坂。ロープを伝って登る。

頂上手前に、矢竹。戦いに備えて築城時に植えられたという。

頂上に到着。

槌山城跡。標高490m。標高約200mの登山だった。
槌山城:尼子氏の侵攻により大内氏の安芸国支配拠点であった鏡山城が1523年に落城(鏡山城の戦い)。その後大内氏は鏡山城を奪回したものの、その防御力に不安を感じた大内義隆は鏡山城を廃城として曽場ヶ城を築城、その後に本格的な山城である槌山城を完成させた。そして1543年に弘中隆包が槌山城に入城した。この頃が槌山城の築城年代として推定されるが、それ以前に砦規模の城があったという説もある。
1551年の陶隆房の反乱により、大内義隆は殺害され、安芸国内の義隆派は槌山城に立て籠もった。安芸国人で最有力の毛利元就は陶晴賢(隆房より改名)の命を受け、平賀隆保の籠もる頭崎城を落城させた後に、菅田宣真らの籠もる槌山城を攻撃した。強攻策では被害が大きく、策を持って城兵をおびき出し殲滅し落城させた。その後、城は廃城となった。(ウィキペディアより)

鏡山城を廃城として、新たに作られたので、鏡山城に比べて標高も高く、見通しもきく。

頂上から東の城郭に降りる道もあったが、今日はそのまま下山する。

白い手すり階段から豊穣池を見る。

今日は日曜日なので、登山者にしばしば出会う。ほとんどがシニア。

鬼が丸城跡に向かう。槌山城合戦の時、毛利隆元の本陣が築かれた場所。

急峻な岩場がむき出している。

しだを掻き分け進む。

頂上近く。岩場の上に立つのかと思ったが、岩場に出る道はなかった。

 頂上から槌山城を見る。毛利隆元もここから槌山城を眺めたのか。

鬼が丸城跡に来るとき、シニア軍団に出会っていた。おじいさんが、引き返さなくてもまっすぐ行けば、豊穣池に下りれると言っていたので、逸れに従い、登りとは別ルートで落ちることにする。道は笹に覆われている。人があまり歩かないようだ。

分岐に出る。左は登り坂なので、自然に右の下り坂の道を行った。

途中に、道が途切れている箇所がある。

いまさら引き返すわけにも行かないので、小川伝いに下りていくと、とんでもない災害跡にに出た。倒木を乗り越える。

谷を渡る。

なんとか開けた場所に出た。

通行止めを示すのだろう。トタン板で塞いである。

やっと道らしいものを歩く。

と思ったら、また災害跡。

土石流が流れてきた。

長谷池という池に着いた。

中央に見えるのは鬼が丸。マップで現在地を確認すると、車を停めた豊穣池とは反対側にいる。豊穣池には山の麓を半周して戻ることになる。

約50分歩いて、出発地の豊穣池に戻る。時刻は12:45。出発は10:15だったから、おまけつきで2時間半の登山だった。思えば、あの分岐の登り坂がここへ戻るルートだったのだろう。ルートを自分で調べず、安易に人の言葉に従ったことを反省した。

西条市街に戻り、ホットカモで風呂に入って帰る。

今日走ったルート。ホットカモからは志和IC経由で帰る。

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