着いたのは本宮大社の裏側になる。
表参道から入るために、一度下る。祈りの道(熊野古道)とある。
これが熊野古道の最後になるのだろう。
瑞鳳殿の横に出る。
ようやく参道入口に到着。
熊野本宮大社。
熊野本宮大社:当社の主祭神は、家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
歴史を遡ると、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられています。
三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことでした。奈良時代には仏教を取り入れ、神=仏としておまつりするようになります。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れました。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていました。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどでした。
明治22年の大洪水により、大斎原は大きな被害を受けました。当時は能舞台などもあり、今の8倍の規模を誇っていましたが、明治24年に上四社が現在地へ移されました。
今、大斎原には中四社、下四社、境内摂末社の神々がおまつりされています。
平成23年9月、紀伊半島大水害により、当社は再び大斎原や瑞鳳殿などに大きな被害を受けました。しかし、平成26年には瑞鳳殿が再建されるなど以前にも増した復興を遂げ、現在に至ります。(熊野本宮大社HPより)
熊野三山:熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を合わせて熊野三山といいます。
熊野の神々は自然信仰に根ざしていましたが、奈良~平安時代にかけて熊野は仏教・密教・修験道の聖地ともなり、神=仏であるという考え方が広まりました。
その影響を受けた三山は結びつきを深め、同じ12柱の神々(=仏たち)をおまつりするようになります。熊野三山の神秘性はますます高まり、平安時代の末には「浄土への入り口」として多くの皇族や貴族がお参りするようになりました。浄土へお参りし、帰ってくるということは、死と再生を意味します。そのため熊野三山は「よみがえりの聖地」として、今なお多くの人々の信仰を集めています。(熊野本宮大社HPより)
参道を行く。
石段を登る。
石段を登りきる。
下を振り返る。
手水舎でお浄め。
水害の前の姿。熊野川の中洲に建っていた。
本宮大社に向かう。
5つの拝殿があり、順番が決まっている。
神門を入る。
実は入口に撮影禁止の看板があったが、みんな気にせず写真を撮っている。自分も撮る。ここまで来て、写真なしではすまないだろう。
⑤満山社 結ひの神(八百萬の神)。
白河上皇の歌碑。
神門を内側から。
左から ③西御前(結宮・第一殿)夫須美大神 、②中御前(結宮・第二殿)速玉大神。
本宮大社を左から。速玉大社の朱色に比べ、落ち着いたダークブラウンの建築。
左から、①証誠殿(本宮・第三殿)家津美御子大神(素戔嗚尊)、④東御前(若宮・第四殿)天照大神。順番に全部お参りした。
背後は深い森。
神門を出る。八咫烏。日本サッカー協会のマークにもなっている。
八咫烏:当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、導きの神として篤い信仰があります。(熊野本宮公式HPより)
大禮殿。
亀石。
大黒石。「大黒石」に触ると金運が上がり、向かいの「亀石」に触ると長寿になるとか。
石段を下りる。
参拝を終える。
大鳥居のある大斎原(おおゆのはら)に向かう。
大斎原の前に、正式な参拝順路として、産田社(うぶたしゃ)。
イザナミノミコトを祀る。女性の守り神。
田んぼの向こうに大斎原の大鳥居が建つ。
正面の参道に戻り進む。
高さ約34m、幅約42m。
火祭りにはライトアップされる。
(八咫の火祭り実行委員会公式HPより)
見上げながら通り過ぎる。
しばらく林が続く。
大斎原。
神が舞い降りたという大斎原。近年はパワースポットとして多くの人が訪れています。熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる中洲にありました。当時、約1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。江戸時代まで中洲への橋がかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりでした。音無川の冷たい水で最後の水垢離を行って身を清め、神域に訪れたのです。ところが明治22年(1889年)の8月に起こった大水害が本宮大社の社殿を呑み込み、社殿の多くが流出したため、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。かつて多くの人々の祈りを受け止めた大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。(熊野本宮観光協会HPより)
今は小さな祠が立つ。
明治24年(1891年3月)に流出を免れた上四社を現在、高台に遷座。流出した中四社・下四社と境内摂末社は旧社地に2基の石祠を建てて祀りました。東方(向かって右)の石祠に中四社・下四社を祀り、西方(向かって左)の石祠に元境内摂末社を祀っています。(み熊野ネットより)
本宮大社に比べて参拝者は少なく、ひっそりしている。
大斎原の周囲を歩いて戻る。
熊野川に出る道がある。
かつては水害も頻繁に起こる水量の多い川だったが、現在はダムが出来て、水は少ない。
土手を歩いて戻る。
本宮大社前の店に入る。
昨日食べれなかっためはり寿司と、そばのセット。
その後、隣の茶屋で一休み。午後の順路を確認する。
本宮大社を後にする。最初の予定では、瀞峡 ウォータージェットに乗るつもりだったが、自分が来たときは台風の影響で運航休止になっていたので、代わりに川湯温泉に行くことにした。(これを書いている11月12日現在、正常運行しているようだ。)。渓谷めぐりは、近く訪れる三段峡や高千穂渓谷で楽しむことにしよう。
川沿いに歩く。川といっても水はなく、ほとんどが川原である。
川湯温泉方面に曲がる。
渡瀬温泉。朝、バスで来るとき通った。本宮大社に行くのに、なんだか山の中を走るなと思っていたが、この辺を走っていたのか。
三叉路を曲がる。まっすぐ行くと湯の峰温泉。
トンネルを行く。
川湯温泉に到着。
吊橋を渡る。
橋の上から。水は透き通っている。
下に露天風呂があったが、宿泊者専用。
川原を掘ると湯が出てきて、自分だけの露天風呂が作れると聞いてきたが、川の水は冷たかった。
公衆浴場に向かう。
源泉かけ流し。熱めの湯で、皮膚が赤くなった。
暖まった体で新宮行きのバスを待つ。 約10分遅れでやって来た。奈良の大和八木と新宮を結ぶ経路なので、正確な時間は望めない。今日は早めに宿に戻る。
熊野古道と本宮大社の旅程図。
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