2020年2月18日火曜日

明智城 (2020. 2.18)

先月、明智光秀ゆかりの地として、安土城福知山城を巡ったが、もうひとつ行きたいとこがある。光秀の生誕地については諸説あるが、その中でも有力候補の可児市の明智城。明智城のあとは南下し、半田に泊まって知多半島を巡る旅にした。

新幹線で名古屋まで。名古屋からは名鉄で、犬山・新可児で乗り換えて、9:45、名鉄明智駅に到着する。

明智城の案内がある。踏切を渡って南に行く。

駅から歩いて15分。マップで目印にした明智城散策路入口に到着。ただ、順路の矢印が反対方向を指しているのが気になる。本丸跡には行けるので、ここから登ることにする。

 散策路マップがあるが、進む方向と逆なので分かりづらい。

竹林の中を進む。

搦手門跡。搦手門は城の裏口に当たるから、どうやら通常とは反対の順路で登っているようだ。

敵の侵入を食い止めるための、切り崖。

脇に逸れる道を登る。

六親眷属幽魂塔(ろくしんけんぞくゆうこんとう)。明智一族の供養塔。

その先は見張台。

主導に戻る。山城によく見かける堀切。一度下る。
堀切:城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)するもの。空堀の一種。 (ウィキペディアより)

堀切を通って坂を登る。

旧道が崩落した後に作られた道。十兵衛坂と名づけられた。

山頂に到着。
明智城:土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。
『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。(戦国城跡巡り事業HPより)

本丸跡。

北方向の展望台。

明智荘が見渡せる。

二の丸跡。通常の順路だと、ここに先に着く。

七つ塚。明智城が斉藤義龍に攻められた際、討たれた明智軍の7武将を葬った塚。数えたら七つあった。
明智城落城:弘治2年(1556年)9月19日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安(宗宿)は弟光久と一族の溝尾庄左衛門、三宅弐部之助、藤田藤次郎、肥田玄蕃、池田織部、可児才右衛門、森勘解由ら870余人を集めて籠城したという。しかし義龍軍は3700余の軍勢で2日間にわたり攻撃を行う。光安は光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃し、妻妾も落城前に自刃したという。(ウィキペディアより)

本丸跡から坂を下る。

桔梗坂。桔梗は明智光秀の家紋にもなっている。

 半分下ってきた。

大手門が見えてきた。

大手門を表から。ネットやテレビで見る風景。本来は、ここから登る。

大手門を出たところに展望台があった。

明智城跡散策を終える。

しばらく歩いたところある天龍寺。

日本一大きな明智光秀の位牌もまつられ、明智一族とかかわりが深い寺院。

明智一族の墓所。

明智城跡のほか行きたかった、大河ドラマ館が開催されている花フェスタ記念公園に着いたが、やけにひっそりしている。入口の門が閉まり、守衛さんが立っている。どうやら今日は、臨時休園らしい。明智に来たときから、大河ドラマ館があるのに、一帯が妙にひっそりとしていると感じていたが、このせいかもしれない。

しかたなく駅に向かう。駅の近くから、先ほど登った明智城跡を振り返る。

明智駅から新可児行きの電車に乗る。

新可児で下車。手前がJR大多線の可児駅、奥が名鉄新可児駅。ここからJRで高蔵寺まで行き、愛知環状線に乗り換えて、岡崎城に近い中岡崎駅で下りる予定。乗換えが多いが、始めて乗る路線に乗るのも、今回の旅の楽しみのひとつである。

大多線の本数は少なく、待ち時間がかなりあるので、新可児駅内の食堂で昼ごはんにする。

やはり、きしめんを注文する。

可児駅から多治見まで行き、中央西線に乗り換え、高蔵寺まで。高蔵寺で愛知環状線に乗り変える。愛知環状線は、JR高蔵寺駅とJR岡崎駅を結ぶ第3セクターの鉄道。豊田市を通り南北に走る。

14:55、中岡崎で下車。乗り換え乗換えで、可児駅から約2時間かかった。

岡崎城は徳川家康が生まれた場所である。大手門から入るため北側に回る。

岡崎城大手門。

三河武士の館。入口に扮装したスタッフがいる。資料館だろうが、今日はパス。

からくり時計。

徳川家康像。

何かの記念のモニュメント。

発掘調査をしている。おじさんたちが、石垣の間を掘っている。

岡崎城の隣にある龍城神社。

龍城堀にかかる神橋。

岡崎城。松に白が隠れる。いわれのある松だろうか。
岡崎城:起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。(岡崎市公式観光サイトより)

入城料200円で天守閣に登る。

天守閣階上。

網越に岡崎市街地。

天守閣を下りて、城を出る。

龍城堀と神橋。

愛知環状線で中岡崎から岡崎まで。岡崎でJR東海道線に乗り換え蒲郡駅で下車。時刻は16時半。今日の日没は17時半頃なので、日が沈む前になんとか、目的地の竹島に行けそうだ。

駅前に船のモニュメント。

駅から歩いて約15分。竹島遊園に到着。ホテルや水族館もある。

あの竹島橋を渡って竹島まで行く。

橋を渡る。

風が強く寒い。

寒い中、大鳥居に到着。
 島全体が天然記念物に指定されている「竹島」。本土から約400mしか離れていないのに、本土の植物体系とは異なる独自の植物体系を持っていることが、天然記念物に指定された理由です。周囲約680m、面積約1.9haの竹島へは橋を渡って行きます。観光施設や宿泊施設が充実しており、のんびりした時間を過ごすことができるのが、竹島の魅力です。(心みちるたびHPより)

 渡ってきた橋を振り返る。

 島の東側に海中灯篭。

神社への石段を登る。

 竹島は縁結びの島としても有名で、パワースポットとして知られている。

宇賀神社。

八百富神社。

大瀧神社。

大瀧神社の裏は海に続く。

階段を下る。

竹島の南端。

遊歩道を歩いて戻る。

島の西側の海中灯篭。

一周して橋が見えてきた。

登り始めた石段の下に戻る。

竹島橋を歩いて戻る。

橋の上から西方向、砂州が出来ている。

橋の終わりあたり、カモメに餌をやる家族連れ。先日行った浜名湖のカモメを思い出す。

JR蒲郡から大府まで。大府でJR武豊線で半田まで。

今日は半田に泊まる。センターワンホテル半田。

食べるところを探したがなかったので、部屋でコンビニ弁当を食べる。

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