2020年1月22日水曜日

福知山城 (2020. 1.22)


朝早く福知山を発つ。福知山城天守閣が9時からなので、その前に福知山近くの黒井城に登り、また福知山に戻ってくる。

JR福知山線黒井駅に到着。

黒井城登山口に向かう。町のあちこちに、「明智光秀ゆかりの地」の旗が立つ。これまで信長を討った謀反人のマイナーなイメージだったが、大河ドラマのおかげで一躍主役に躍り出た。

登山口に行く途中にある風情のある建物。

興禅寺。徳川三代将軍家光の乳母になった春日局は幼少のころ「お福」といい、ここで生まれ3歳まで過ごした。

下には、春日局庵という休憩所があった。

黒井城登山口に到着。

登山ルートは2つある。こちらは急坂の健脚コース。

自分はゆるやかコースを行く。

まずは緩やかな道。

獣害を防ぐための金網門をあけて入る。

シニアのグループが下りてくる。早朝から登る人が結構いた。

登山道はきちんと整備されている。危険な道はロープが張ってあって入れないようにしてある。観光誘致への行政の力の入れようが分かる。

本丸へ向かう道。

浮き出た血管を思わせる根の道。

しばらく平坦な道が続く。

途中からかなり急な九十九折の坂道になる。

仁王門に到着。

下界は霧で見えない。

曲輪のあった石踏の段跡。

本丸まで200m。

頂上が近づくと岩場が多くなる。

金網門を開けて出る。

本丸まで100m。

東曲輪跡。

三の丸跡。

二の丸跡。

本丸の下。

本丸の石垣。 階段を登る。

本丸に到着。時刻は8:15。

本丸広場。

正式名は保月城というらしい。
黒井城:黒井城跡は中世末期、奥丹波の盟主であった赤井(荻野)氏の居城跡で、織田信長の丹波攻略の際には、二度にわたって明智光秀の攻撃を支えた城である。 本丸をはじめとする山頂の曲輪群は、堅固な石垣で囲まれ、三方に伸びる山稜上に城砦群を配して、全山を要塞化したこの城の構えは、光秀の攻撃を長期にわたってしのいだその歴史にふさわしいもので、戦国期山城の典型として高い評価を受けている。城跡は標高356mの猪の口山を中心に広がり、本城部分は南北に約150mの山頂を削平して、北から本丸・二の丸・三の丸を段階状に配置している。またその一段下に、これを取り巻くように東曲輪・西曲輪及び帯曲輪を配して防御を固めている。また、大手口・二の丸・本丸などの主要部分には石垣を築いているが、いずれも野づら積で、天正期の構築と考えられ、本丸二の丸からは、今なお部厚い平瓦・軒丸瓦・雁振瓦などが見い出され、かなりの規模の瓦葺建造物があったことが想像される。黒井城跡は永禄から天正期の城郭遺構が、その後改変の手が加わることなく良好に残されており、城郭史上きわめて貴重な城郭である。(丹波市HPより)

一帯は霧に包まれている、地元ボランティアのおじさんが、登って来た人にコーヒーを振舞っていた。

本丸から下をのぞく。

ボランティアのおじさんと、自分は広島から来たなどと話しているうちに、気づいたら周囲の霧が晴れて雲海が見えるようになっていた。

霧が晴れているうちに、急いで写真を撮る。雲海があるのは知っていたが、なかなかチャンスがないとも聞いていたので、思わぬサプライズだった。




黒井城の雲海①

 日も差している。

黒井城の雲海②

 青空が見える。時刻は8:35。登った時は霧に包まれていたが20分しかたっていない。

自分より後から登ってきた地元のおばさんが、寒い中を… と心配する中、しばらく雲海を楽しんで本丸を下りる。

下りは急坂コースを下る。

金網門を開けて出る。

急坂コース登山口に下りる。

黒井駅まで戻り、電車の時間までしばらく待って福知山に戻る。

福知山駅北口。福知山城まで歩く。

市役所前から見える福知山城。

城の入り口前の、車道にかかる古風なイメージの橋。

入城券と光秀ミュージアムの共通券を買う。

福知山城に向かう。

城の下から見上げる。

天守閣前の広場。

福知山城。
福知山城:福知山城は、 天正7年(1579) ごろ、丹波平定に成功した明智光秀が丹波の拠点として新たに城を築いたのが始まりとされています。
以来、 戦乱の時代、城主が交代する中、順次整備が進められ、慶長5年(1600) ごろに完成したようです。明治時代のはじめに廃城令で取り壊され、 石垣と銅門(あかがねもん)番所だけが残されていましたが、市民の瓦1枚運動などの熱意によって、3層4階の天守閣が、 昭和61年 (1986) 11月に再建されました。
天守閣は、 望楼型の独立式を基本として復元され、初期天守閣の特徴がよく現れたものとなっています。石垣は、 築城当初の面影を残すもので、野面積み、乱石積み、穴太積みなどと呼ばれる、自然石をそのまま用いた豪放なもので、 福知山市の指定文化財となっています。一見乱雑に見えますが、 石材は奥に長く用いられて、強固な石垣が組み上げられています。石垣内部に石塔類が使われるなど、 安土城や二条城など織田信長にかかわるお城に共通する特徴を持っています。深さ50m (城郭内湛水井としては日本一の深井戸)の「豊磐(とよいわ)の井」は、今も海抜30mの高さまで清らかな水をたたえています。(福知山観光協会HPより) 

石垣の間に見える境界線。右が光秀時代、左は後に増築されたもの。

安土城と同じく、転用石が見える
福知山城の石垣には宝篋印塔、五輪塔など寺院で使われていた石造物が大量に使用されており、これを「転用石」と呼んでいます。銅門番所の脇には調査で発掘された転用石が展示されています 。(攻城団HPより)

逆さになったもの。

縦になったもの。

天守閣入り口にある井戸、豊磐(とよいわ)の井。

天守閣に入る。

天守閣階上。

福知山市街。

光秀が治水工事を行うまでは洪水の多かった由良川。

天守閣を出て、もういちど見上げる。

門を出る。

奥さんに熱心に石垣を説明するシニア男性。

光秀ミュージアムに向かう。

ミュージアム前の太鼓橋。

光秀ミュージアムは、福知山出身の画家、佐藤太清の記念美術館2階に開設されている。

光秀ミュージアムに入る。

入り口にある大河ドラマののパネル。本能寺の変の真相については、一押しはなく、諸説が紹介されていた。

福知山城の隣は公園になっている。

福知山駅までバスもあるが、待つより歩いた方が早いと思い、福知山城を後にする、歩いていたら、バスが追い越して行った。

午後は、丹波篠山に行く予定だが、電車の待ち時間があるので、駅構内の店で昼ご飯にする。今回の旅で、やっとまともな食事。

特急こうのとりで篠山口に向かう。こうのとりは、城崎温泉と新大阪を結ぶ特急。城崎温泉には、昨夜乗った京都からの特急きのさきもある。このあたりの路線、JR以外に天橋立にむかう京都丹後鉄道もあり、なかなか覚えられない。その都度、行き先に合わせて路線を確認する。

篠山口駅に到着。丹波篠山中心地はJR駅から離れておりバスで行くことになる。近いほうの東口に出たが、バス停がない。

反対側の西口からバスが出ていた。

丹波篠山の中心地にある二階町バス停で下車。丹波篠山は黒豆の産地とだけ知っていたが、Tverでいつも見る「じょんのび日本遺産」で詳しく知って、今回福知山の帰りにコースに組んだ。

見たいところは何カ所か選んできた。最初にデカンショ館。ここで各施設の共通券を買う。

デカンショ祭りのポスター。

デカンショ節の歌詞。デカンショ節はその節回しも知っていた。「デカルト・カント・ショーペンハウエル」、若いころかじった哲学者の名前をもじっているので、昔の学生の歌と思っていたが、篠山が発祥の地だった。

次にデカンショ館の前にある篠山城に向かう。

内堀。

石垣の間を行く。

大書院に入る。

上段の間。

縮小の内部模型。

大書院を出る。

二の丸御殿に向かう。

建物の跡が表示されている。

篠山城大書院の全景。
篠山城:慶長14年(1609)、徳川家康の命により西国諸大名が動員されて築かれた篠山城大書院は天守のなかった篠山城の 中核をなす建物でした。廃藩置県後の廃城令によって日本各地の城の多くが破却されるなか、大書院は 難を逃れたものの、昭和19年(1944)1月6日の夜に惜しくも焼失してしまいました。 その後、篠山市民の熱い願いと尊い寄付によって平成12年(2000)4月に再建が成り、かつての姿を取り戻すことができました。
大書院は木造建築物としては規模壮大な建物で、現存する同様の建物としては京都二条城の二の丸御殿にある 遠侍と呼ばれる建物に類似しています。二条城の御殿は、将軍が上洛したときに宿所となった建物であり、篠山城大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえます。 内部に展示した篠山城に関する諸史料とともに、大書院がまとう江戸時代の佇まいを感じてください。(丹波篠山市HPより)

篠山城から市街地を見渡す。鉄道駅から離れていることもあって、高層ビルが一つもない。昔の町並みが残る。

内堀沿いに南に歩く。

角の石垣。精緻な積み方がされている。

外堀に向かう。

外堀にかかる通路から。篠山城の広さが分かる。

武家屋敷安間家史料館。

中庭。

武家屋敷の全景。

水滴で音が出る。水琴窟。

武家屋敷から外濠沿いに20分くらい歩き、河原町妻入商家群。

古い町並みの保存地区である。

丹波篠山で予定していた最後のスポット、王地山まけきらい稲荷に到着。

鳥居のトンネルに入る。

これまで訪れた鳥居のトンネルを思い出しながら登る。北長門の元乃隅稲成神社、 津和野の太皷谷稲成神社、京都の伏見稲荷

登った所から下を見る。

神社に上がる。

上がってすぐあるのが、王地山平左衛門稲荷神社。別名まけきらい稲荷。
「篠山藩主青山忠裕公が老中であった約170年前の文政年間の頃、毎年春と夏に、江戸両国の回向院広場で、将軍上覧の大相撲が催されていた。ところが、いつも篠山藩のお抱え力士たちは負けてばかりであった。ある年の春場所のこと、篠山から来たという王地山平左衛門ら8名の力士と行司1名、頭取1名の 一行10名が現れ、土俵に上がると連戦連勝してしまった。負けきらいのお殿様は大変喜んで、その者達に 褒美をやろうとされたが、どこにもいない。後で調べてみると、なんと全員が領内のお稲荷さんの名前だった。
そこで、それぞれに、幟や絵馬などを奉納して感謝したという。」 (丹波篠山観光情報より)

こちらが王地山稲荷神社。

丹波篠山の町を見下ろす。

近くに、ささやま荘という入浴施設があるのを調べてきたが、風呂に入ってふやけると、帰るのが億劫になるので、今日は止めにして、バス停に戻る。下りは鳥居ではなく、「まけきらいの道」という道を下りる。

篠山城の堀まで戻る。

市役所の前に立つ、デカンショ武士のモニュメント。

風呂に入らない代わりに、どこかでゆっくりしたいと思い、篠山上の前にある大正ロマン館に入る。

黒豆コーヒーなるものを注文する。館内にあったバスの時刻表を見ると、次のバスまであまり時間がないので、途中からテイクアウトでコーヒーを飲む。

16時の篠山口行きバスに乗る。

予定では、バスの到着と特急の乗り継ぎ時間があまりなく、急いで切符を買ったが、結果的には5分遅れで列車が来た。特急こうのとりで、新大阪まで焼く時間。新大阪から新幹線で帰る。

丹波篠山での歩行図。

今回の旅の行程図。

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