2019年10月1日火曜日

大宰府 (2019.10. 1)

このところ泊りがけの旅行を予定すると、台風の影響受ける。今回4連休なので、当初台風の進路に合わせて後半の2日を予定していたが、台風の進路が遅くなり、天気予報を気にしながら前半に変更した。1日目、大宰府に参拝の後、古代の山城である大野城に登る。久留米で1泊し、2日目は柳川の川下り、その後10月から始まった九州国立博物館での三国志展を見て帰る。

新幹線で博多まで。地下鉄で西鉄天神駅まで行き、西鉄大牟田線と大宰府線で、太宰府まで行く。大宰府線には西鉄二日市で乗り帰る。そこに観光列車「旅人」が停車していた。1日に何便かは運行される。

二日市から大宰府まで、間に1駅しかない短い路線だ。すぐに大宰府駅に到着。

天満宮をイメージした駅舎。

天満宮に向かう。

朝早いので多くの商店が閉まっている。名物の梅ヶ枝餅も準備中。

目を惹くスタバのデザイン。後でもう一度訪れたとき、外国人に人気だった。

大宰府天満宮入口に到着。
大宰府天満宮:菅原道真(菅原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上、年間にすると850万人以上の参詣者がある。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。 (ウィキペディアより)

参道を振り返る。

太宰府天満宮の境内図。

入口にある、菅原道真の有名な歌碑。
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」

頭を撫ぜると頭がよくなると言われる御神牛。人が途切れない。例によって中国人が多い。

人が途切れてたのを待って撮影。

正面から。
御神牛:道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。門弟であった味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 (大宰府天満宮HPより)

本殿までの参拝路にかかる橋。太鼓橋。

太鼓橋は2つの橋で出来ている。

太鼓橋を渡り本殿に向かう。

手水舎で清める。

楼門。

 楼門をくぐり境内に入る。

飛び梅。道真があの和歌を詠むと、それを感じた梅が大宰府まで飛んできたとの言い伝え。実際には、京都の道真の館にあったものを大宰府天満宮造営の際に移植された。

本殿にお参りする。

暗いトーンの朱色は落ち着く。

本殿の横から外に出る。巫女さんが歩いている。

本殿裏にある楠の大樹。


本殿の裏にあるたくさんの絵馬。

 こちらは厄除けのひょうたんらしい。

菅原道真の資料を展示した菅公歴史館に入る。

 道真の一生がジオラマで展示してある。

もう一度境内に戻り歩いてみる。菖蒲池。

鹿児島の仙巌園でもみた曲水の庭。

ここは水が涸れていた。

大野城に登るために境内を出る。黒い御神牛。

太鼓橋を横から眺める。

社務所の横にある樟の大樹。樹齢1000年以上。根回りは20m。

誠心館の前では儀式の準備。

天満宮を後にする。

さて、今回大宰府を訪れたもう一つの目的地、大野城跡に向かう。このマップをプリントして携帯。

 九州自然道という歩道もあるが、傾斜の緩やかと思われる車道を行く。

民家が途切れて山に入る。

一帯は、福岡県立四王寺県民の森になっている。ここまで眺望できるところはなかった。

岩屋城跡の入口に到着。展望所があるようだ。

トレッキング中のおじいさんに出会う。

展望所に上る。

岩屋城跡。岩屋城は中世の山城。おじさんが何人かいた。

ここからの眺めはすばらしい。

青い建造物は九州国立博物館、その手前に太宰府天満宮。

目を北方向に向けると、水城跡。

その南に大宰府政庁跡。

展望所を降りる。左の道が九州自然道。車道を横切る形で繋がっている。

大宰府口城門跡に到着。

地形がいまいち分からないが、下に降りてみる。

これが城門跡だろうか。

反対側に回ってみる。石垣も見える。

坂を登る。

これが土塁跡のようだ。土塁を歩く。

大野城跡の説明がある。665年に山頂全体を城とする大野城が築かれ、大宰府を守る役目を果たした…

大野城跡の石碑。
大野城:7世紀の初め頃、朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が互いに戦争を繰り返していました。660年、新羅は中国を統一した唐の援助を受けて百済に攻め入り、百済は滅亡してしまいます。百済の遺臣は、大和朝廷(当時の日本)に救援を求め、大和朝廷はそれに応じ、663年、百済を救援するため、朝鮮半島に出兵します。これが、教科書にも登場する有名な「白村江の戦い」です。
 救援に向かった大和朝廷でしたが、唐・新羅連合軍に敗れてしまいます。この結果、連合軍の日本侵攻が想定されたため、664年に大宰府政庁(九州の政治拠点)を防衛するための水城跡を造り、その後、665年に大野城が築城されるのです。つまり、大野城跡は、大宰府政庁が攻撃された時に備えた籠城のためのお城であったといえます。
 大野城はお城といっても、近世の天守閣などがあるお城や中世の山城と違い、土塁(城壁)と石垣で山を囲んだ古代の山城です。土塁と石垣で囲まれた城内には、建物跡(役所的機能をもつ建物や食糧庫・武器庫など)、城門、水場(井戸・池)、水門などが造られています。(宇美町HPより)


焼米ヶ原。その昔、炭化した米が多く見られたことから、この名前になった。

延々と続く土塁。山の尾根を利用して、山頂を取り巻くように作られたいる。途中尾根の低いところには石垣が築かれた。およそ周囲8km、歩いて回ることも出来るようだ。
土塁というのは、敵の侵入に備えた土でできた壁のことです。質の違う土を数cmごとに積んでは叩きしめるという工法で巨大な土塁を造っています。このような工法を「版築(はんちく)」といいます。土塁は四王寺山の尾根をとり巻く様に造られています。谷間など、宇美町側と太宰府市側は、二重の土塁が設けられています。これら土塁と石垣の総延長は、約8kmにも及ぶ長大なものです。(宇美町HPより)

土塁の上から大宰府を見る。

続いて、増長天礎石群・鏡ヶ池・大石垣を見る。

増長天礎石群。かつて建物があった跡。

鏡ヶ池。道真が大宰府に入る前に、新しい衣に着替える際、姿を池に映したとの言い伝えだが、水は泥水で姿は映らないようだが…

大石垣に向かう。これも土塁跡か。

大石垣はかなり下ったところにあった。災害でここまでしか降りれなかった。

下った坂を登り返し、県民の森センターに向かう。そこで昼ごはんにするつもり。

また坂を下る。

途中、子供の国広場を通り…

県民の森センター入口に到着。

観光バスが4台入っていった。

池の向こうに休憩所があるので、そこで昼を食べる。

今日はコンビニで弁当を買ってきた。

先ほど入ったバス、中学生の団体。ほかに座るところがないのか、大胆にも道路の上にシートを敷いて昼ごはん。

昼ごはんを食べ少し休んで、次の目的地、百間石垣に向かう。大石垣が肩透かしだったので、ぜひとも石垣を見たい。

百間石垣に到着。

百間石垣の前に北石垣がある。先に登ってみる。

足場の悪い急な上り坂がこたえる。

やっと登りきった。北石垣の案内があるが…

 どこにも石垣らしきものが見当たらない。

なんとか探してみるが、あれが石垣の一部なのだろうか。ここも肩透かし。

想定される敵軍は博多方面からせめて来るだろうから、北の位置から見てみたかったのだが、唯一眺望できたのはこれだけ。

北石垣から下りて、百間石垣に登る。

右の石垣見学路を行く。

やっとまともな石垣が見れた。
尾根は土塁で防御していますが、谷部など大雨で土塁が崩壊する可能性がある箇所では石垣を造っています。石垣は現在、5箇所見つかっています(百間石垣・大石垣・北石垣・小石垣・水ノ手口石垣)。なかでも、宇美町側から県民の森センターに向かう途中の右側にある百間石垣は、全長約180mにも及ぶ立派な石垣です。(宇美町HPより)

百間というくらいだから、長い石垣である。石垣の下を歩く。

 行き止まりかと思ったが、登山道に上る階段があった。

階段の途中で石垣を写す。

予定していたスポットはこれでいちおう済んだので、後は山を降りるだけ。

登山道から石垣を振り返る。

この遊歩道も土塁の上なのか。平坦ではなく登ったり下ったりの道。

 先ほどの北石垣への登りがこたえた。登り坂になるとしんどい。

なんとか野外音楽堂に到着。ここで車道と合流している。

車道は県民の森センターに戻るので、車道を横切り山道を行く。足は突かれきっている。

毘沙門堂に到着。

毘沙門堂を過ぎて分岐点。自分は水城方向に下りたいのだが、携帯したマップでは道ははっきり分からない。右が、大城自然の宝道とあり、変なとこには導かないだろうから、右に行く。

後は下るだけ。

途中展望台があった。

水城跡が見えるが、この道はそこには下りないようだ。あるいは毘沙門台の分岐を左に行くと、水城方向だったのか。まあ、この道を下りるしかない。

 宝道というが、かなり急な坂道である。

 ようやく駐車場まで降りてきた。ここに車を停めて登るのだろうが、登りはかなりきついだろう。

水城方面への脇道もあるかもしれないが、安全策の車道を行く。目的地の水城跡までは、マップの経路検索で約1時間。時刻はすでに15:50。大野城跡歩きは予想以上に時間がかかった。最初、予定を早く終わったらどこを回ろうかと思っていたが、とんでもない目論見だった。早く終わるどころか、日没までに回れるか心配になってきた。

やっと麓まで下りてきた。「おつかれさまでした」は登山者向けだろうか。

水城跡に到着。
水城跡:664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。博多側から南下してくると、太宰府市に入ってすぐに道路や線路を横切る木立におおわれた丘がある。これが664年、唐と新羅の攻撃に備えて築かれた大宰府の防衛施設「水城」である。その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存している。(大宰府観光協会HPより)


展望台に登る。

水城跡を一望する。

展望台。

先ほど登った大野城跡のある四王寺山。

水城跡の博多側。外堀があった。

大宰府側。内堀があった。一帯は公園になっており、時間があれば断面ゆっくり見物できるようだが、もう日が暮れそうなので、今日は大まかに見て済ます。時刻は17:10。今日の日没は18時。大宰府政庁跡は日の暮れる前に見ておきたい。水城跡を後にする。

水城跡から歩くこと20分。政庁跡に近づく。近くに学校があり、生徒がランニングしている。

大宰府政庁跡に到着。時刻は17:40。なんとか日暮れ前に到着できた。

南門跡。

政庁跡といっても建物はなく。広大な敷地があるだけ。ただ、こんなに広かったのかと想像して楽しむ。

 建物が建っていた礎石の跡。

一帯は犬の散歩など、すっかり公園化している。

政庁跡の北側から南を見る。

礎石の上で足を休める。

日も翳り始め政庁跡を出る。

一番近い駅の西鉄都府楼前駅。

久留米に向かう。

西鉄久留米駅西口。去年の11月に来て以来、1年ぶりの久留米

今日の宿は、ニュープラザホテル久留米。手前のほう。

素泊まり1泊4800円。比較的安いほうだ。スマホの歩行計では4万歩越え。よく歩いた。

 大野城周辺の行程図


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