これまで他の目的地との組み合わせで、京都は訪れている。去年は嵐山、今年は大原三千院と清水寺。どちらかと言うと周辺地域が多かった。今回、京都まち歩きとして、寺社巡りをすることにした。著名なものだけでも一日では回りきれず、2~3日はかかるだろう。宿泊してもいいが、訪問で得る情報を整理するために日帰りで分割することにした。今回は①として以下のように設定した。全部回れるだろうか。残れば次回に回す。
朝一の新幹線で京都に向かう。最初の訪問地、二条城の開門が8:45、時間があるので駅構内の喫茶店のモーニングセットで朝食。駅北口のバス案内所で、900円のバス地下鉄1日乗車券を購入。市バスと地下鉄は乗り放題なので、今回のように乗り換えの多い場合は、断然お得である。
京都駅⇒地下鉄烏丸線⇒烏丸御池で乗り換え⇒地下鉄東西線⇒二条城前駅で下車。二条城入口の東大手門に向かう。
東大手門。二条城、正式には元離宮二条城という。
開門前だが、長蛇の列。修学旅行の学生が多い。
東大手門を入る。入城料は1000円と、他の施設に比べて割高であるが、改修費用の寄付も含まれるのだろうか。一口城主募金の案内もあった。
まず唐門から入る。
広大な敷地は、二の丸エリアと本丸エリアに分かれる。
元離宮二条城:二条城は1603年(慶長8年)、江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていました。
3代将軍家光の時代、後水尾天皇行幸のために城内は大規模な改修が行われ、二の丸御殿にも狩野探幽の障壁画などが数多く加えられました。壮麗な城に、天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。
1867年(慶応3年)には15代将軍慶喜が二の丸御殿の大広間で「大政奉還」の意思を表明したことは日本史上あまりにも有名です。(二条城公式HPより)
先に二の丸御殿に入る。中は撮影禁止。模写の襖絵に囲まれた部屋がたくさんあるが、中でも足を止めたのは、将軍徳川慶喜が大政奉還をした広間。その様子を再現した人形も展示してある。
二の丸御殿を出る。二の丸庭園。
堀を隔てて本丸エリアがある。本丸櫓門。
東橋の上から。右が本丸。
本丸庭園を歩く。
天守閣跡に登る。
天守閣跡の上から。
本丸御殿は現在改修中。いくつかのエリアに区切って、何十年もかけて改修している。
本丸を出る。
西橋の上から。
西橋。
本丸の周囲を歩いて戻る。今年の秋は、大銀杏を各所で見る。
黄色の絨毯。
西橋を遠くから。
戻る途中にある清流園。
二の丸御殿は撮影できず、本丸御殿は改修中。物足りないまま、東大手門を出る。
二条城公式HPでは2時間コースとあったが、本丸御殿が改修中なので、約1時間で回った。
二条城の南、歩いて5~6分のところにある神泉苑。
神泉苑:京都市中京区にある東寺真言宗の寺院。本尊は聖観音・不動明王・弘法大師。二条城の南に位置し、元は平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)であった。(ウィキペディアより)
石橋を渡る。
善女龍王社。
法成橋。
橋の上から、善女龍王社。
法成橋を遠くから。
奥に遊覧船のようなものが見えるが、後で調べたら雅楽奉納のときに使う船のようだ。
金閣寺に向かう。二条城前駅⇒地下鉄東西線⇒烏丸御池で乗り換え⇒地下鉄烏丸線⇒北大路駅でバスに乗り換え⇒金閣寺道で下車。紅葉は散り始めているが、敷き詰めた落葉が美しい。
総門を入る。
紅葉の向こうに鐘楼。
ここもたくさんの人。外国人の姿が目立つ。 入場券がお札になっている。
金閣寺。正式には鹿苑寺と言う。金閣はその舎利殿。
金閣寺:正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました。(金閣寺HPより)
ズームアップ。最近張り替えたのか、金箔が輝く。
池の畔を歩く。
金閣寺を近くから。
紅葉の向こうの金閣寺。
金閣寺の向こうに葦原島。
金閣寺と葦原島。
金閣寺裏の散策路を行く。銀河泉、足利義満が茶の湯に使った。
巌下水。お手洗いの水。
金閣寺垣。柵が会って登れない。
龍門の滝。
安民沢の方へ登る。
安民沢。
見晴台から金閣寺を臨む。
夕佳亭。
不動堂。隣では御朱印をもらう人が列をなしている。
不動堂から下りる。
紅葉が美しい。
赤い絨毯。
苔の緑と紅葉。
金閣寺を後にする。
金閣寺境内図。(金閣寺HPより)
続いて、京都御所に向かう。
金閣寺道⇒バス⇒北大路から地下鉄烏丸線⇒今出川駅で下車。
今出川駅から歩いて南下し、蛤御門から京都御苑に入る。
蛤御門:現在の京都御苑の外郭九門の一つ。本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」。門の形状は高麗門型の筋鉄門である。御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、固く閉じていたものが火にあぶられて開いたことをハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられたとされる。いずれの火災時期とするかについては、宝永の大火(1708年)後とする説と、天明の大火(1788年)後とする説が挙げられている[1]。近年では寛文13年(1673年)の火災後まで遡るとする説や、「開かずの門」は本来は現在の下立売御門であったとする説も挙げられている。元治元年7月19日(1864年8月20日)の蛤御門の変では門の周辺が長州藩との激戦地となった。現在でも門柱に命中した弾痕を確認することができる。(ウィキペディアより)
京都御所は、御苑の中にある。
京都御所:1331年から1869年(明治2年)までの間の内裏(天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所)。現在は宮内庁京都事務所が管理している。(ウィキペディアより)
京都御所の宣秋門。
清所門。ここから中に入るのだが、本日は公開休み。そういえば敷地内を式服を着た宮内庁の人が忙しそうにしていた。なにかの式典があるのか。
広大な御苑の敷地。黄葉と紅葉。
御苑を歩く。
調べてきたところによると、落書き防止用に可部には赤外線センサーが設置してあるという。
銀杏の落ち葉の上でポーズを取る中国人。
紅葉のしたのシニア夫婦。
御苑を出る。
最初の予定では今出川からバスで銀閣寺に向かう予定だったが、北大路バスターミナルからバスが出ていたし、今出川からのバスは見当たらないので、一度北大路に戻る。北大路バスターミナルは乗り場が色分けしてあって分かりやすい。金閣寺は青、銀閣寺は赤。さっきは青乗り場から乗った。今度は赤乗り場から乗る。
今出川⇒地下鉄烏丸線⇒北大路でバスに乗り換え⇒銀閣寺道で下車。
銀閣寺に向かう道は、西田幾多郎が思索して歩いた哲学の道。
きらびやかな金閣寺に比べて銀閣寺は地味なので、ひっそりとしているのかと思ったが、こちらもお土産屋もありにぎやか。昼ごはんにうどんを食べる。
銀閣寺総門に到着。正式には東山慈照寺。銀閣はその観音殿。
銀閣寺:正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。(銀閣寺HPより)
金閣寺同様、お札がチケット。中門を入る。
職人さんが庭木を手入れしている。
華麗な金閣寺とは対照的な簡素枯淡の美しさ。
銀沙灘の向こうに銀閣寺。
向月台。
向月台と銀閣寺。
東求堂。
銀沙灘と方丈。
松の間に銀閣寺。
洗月泉。
ここから展望所まで坂道を登る。
池の中央にあるのは大内石。大内は大名の名前らしい。ここに詳しい。
苔むした山肌。
登ってみたい坂道だが。
進入禁止。
お茶の井。現在でもお茶会に使用される。
自然の石か造形か。
展望所に向かう。
下には小学生の団体がにぎやかにしている。
展望所から銀閣寺他を臨む。
ズームアップ。
展望所を下りる。
紅葉の向こうに銀閣寺。
山手には杉林。
銀閣寺まで下りてくる。
銀閣寺を後にする。
平日にもかかわらず、ここも参拝者が多い。秋の観光シーズン。
銀閣寺境内図。(銀閣寺HPより)
続いて下鴨神社に向かう。
銀閣寺道⇒バス⇒京阪三条⇒京阪本線⇒出町柳駅で下車。神社に向かう前に、賀茂川と高野川が合流するデルタ、通称下鴨デルタに行く。映画やドラマのロケ地としてよく使われる。賀茂大橋の上から写す。
川に下りて飛び石をわたる。少し雨が降り出したので、滑らないように慎重に。石の幅は、1m弱。普通の歩幅よりやや長いので、少し飛ぶ感じ。
ところどころに亀の石。
デルタに上がる。
デルタ地帯の中を通るようにして下鴨神社(賀茂御祖神社)の参道がある。
参道のある森は、糺の森(ただすのもり)と呼ばれる。
参道を逸れたところに、河合神社がある。下鴨神社の摂社にあたる。
鴨長明の方丈庵の復元。
この河合神社は、三大随筆の一人、鴨長明に関係の深いお社で鴨長明は河合神社の禰宜の息子として幼少時代を過ごした。現在では、この河合神社には長明が晩年過ごしたと言われる建物を再現した方丈の庵が展示されている。(下鴨神社HPより)
美人になれる鏡絵馬があるらしい。
糺す森の落ち葉の道。
参道に戻り下鴨神社に向かう。
参道の脇には小川が流れる。
南口鳥居に到着。
古びた手水舎。
楼門を入る。
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ):通称、下鴨神社ともいいます
…
当神社がまつられたのは、崇神天皇の7年(BC90)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の森周辺の発掘調査で縄文時代の土器や弥生時代の住居跡がたくさん発掘され、それを裏付けています。また社伝や歴史書に、お祭、社殿、ご神宝等の奉納などが記録されています。『続日本紀』の文武天皇二年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。(下鴨神社HPより)
舞殿には子供たちの習字作品が貼ってある。
境内から楼門を写す。
中門を入る。
お参りは自分の干支に合わせて行う。
神社の横にある橋。
橋と鳥居。
神社も前にある、さざれ石。「君が代」に出てくる。子供の頃は「さざえ石」に聞こえていた。
下鴨神社をあとにする。
糺の森を戻る。
下鴨デルタと賀茂大橋。時刻は15:30。まだ回れそうだ。
続いて向かうのは平安神宮。
出町柳⇒京阪電車⇒京阪三条で地下鉄東西線⇒東山駅で下車。平安神宮まで歩く。
平安神宮を象徴する大鳥居。
大鳥居を見上げる。
鳥居の根元。車と比べて、その大きさが分かる。
應天門を入る。
平安神宮:平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。(平安神宮公式HPより)
境内は広いので、遠くから出ないと全体が収まらない。
対極殿。
左に白虎楼。
右に、左右対称の蒼龍楼。
境内から應天門。
近くから白虎楼。蒼龍楼の構造は白虎楼と同じ。
近くから対極殿。
左近の桜。
雨も止み、通ぐれの空。
平安神宮の周辺には美術館などもあり、ゆっくりすれば半日かかるだろうが、今日はスタンプラリー感覚で回っているので次に向かう。だいぶ暗くなったが、予定の八坂神社まで回れそうだ。平安神宮前のバス停に、ちょうどバスが来たので乗る。1日乗車券が役立ち、元は十分すぎるくらい取った。八坂神社は京阪の祇園四条駅から近いので、とりあえずどこかの京阪の駅を通れば下りるつもりだったが、バスの中で順路を見ていたら、八坂神社の近くを通るようだ。マップで場所を確認し、知恩院前で降りる。
平安神宮前⇒バス⇒知恩院前。
八坂神社に到着。西楼門から入る。
縁日の屋台が並ぶ。調べてこなかったがお祭りか。
八坂神社:当社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。(八坂神社HPより)
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である主張をしている。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。(ウィキペディアより)
舞殿。
本殿。
南楼門。
南楼門から出る。
八坂神社境内図。(八坂神社HPより)
祇園の花小路を京阪祇園四条駅に向かう。
四条大橋の上から、鴨川上流。賀茂川と高野川が下鴨デルタで合流し、鴨川となる。賀茂と鴨、名前がややこしいが合流する前が賀茂、合流した跡が鴨。
南座。もともとは歌舞伎だが、現在は演劇やコンサートも行われる。
鴨川の岸辺に下りる。下流の四条大橋方面。
上流の下鴨デルタ方面。
京阪の祇園四条から電車に乗る。
祇園四条⇒京阪電車⇒東福寺でJR奈良線に乗り換え⇒JR京都駅。
京都から18時前の新幹線で帰る。
当初の予定では、京都まち歩き①に南禅寺も組んでいたが、時間的に無理だったようだ。南禅寺は見所いっぱいでゆっくり時間をとりたいので、京都まち歩き②にまわす。