2019年1月30日水曜日

武田山・佐東銀山城 (2019. 1.30)

昨年(2018)、吉田郡山城跡宮島博打尾など、毛利元就ゆかりの地を回った。今年になって、youtubeでNHK大河ドラマ「毛利元就」を見て、広島県内近くに、たくさんの山城跡があるのを知った。毛利元就の安芸統一に関連する城跡という意味では、これまでそういう知識を持たず訪れた、城山(門山城)備中松山城神辺城跡毛利元就関連山城シリーズに含まれる。
今回は、広島市安佐南区にある、佐東銀山城跡。

9:40、JR可部線の下祇園駅で下りる。

安佐南区のHPにあったこのマップを参考に歩く。

 登山口のある武田山憩いの森まで、ずっと坂道が続く。今日は調子が出ない。公園に着いた頃には、すでに息切れしている。足も重い。標高は100mになっていた。

公園の奥に登山道入口がある。違う方向から降りてきた、中年男性と挨拶を交わす。 自分が頂上まで登ると告げると、「かなり急ですよ」とアドバイスを受ける。
佐東銀山城:現在、武田山と呼ばれる標高410mの山頂を中心とし、周辺の尾根に50以上の曲輪を持つ巨大な連郭式山城であった。堀切や近世城郭に見られる桝形の原点とも言える巨岩を利用した御門跡などの遺構が存在するも、他の山城に見られるほどの築城が行われた形跡は少なく、自然の要害を利用した山城であった。周辺地域には支城や寺社を配し、防衛網を作り上げていた 。(ウィキペディアより)

鎌倉時代初期、旧祇園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所をしめていました。
 こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221年)で手柄をたてた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えれています。銀山城は、これ以後、天文10年(1541)大内氏の命をうけた毛利元就に攻め落とされるまで約300年間、大田川中、下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割を果たしていました。
 現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡とよばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の枡形の原型として大変貴重なものといわれてます。このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にもきわめて優れており、広島県を代表する中世の山城といえます。(案内板より)

しばらくは平坦な道が続く。シニアの男性とすれ違う。

なんだか堀切のようなくぼみ。戦国時代初期の山城には、防御のための堀切が多い。
この登山の後日、NHKの「歴史ヒストリア」で山城を扱っていた(「山城、戦国を動かす」)。それによると、織田信長以前の山城は、城主と家臣が横並びの並列的な山城であった。信長により求心的な、城主を中心とする階層性の山城に変わった。並列的な山城では、城主と家臣の各拠点は堀切により区切られていた。防御のための堀切が、有事の際の軍事力の連携を阻み、一点集中の攻撃に対しては脆弱であった。浅井長政が織田信長に敗れた小谷城の戦いはその例である。

まずは、最初のポイント「馬返し」を目的に歩く。馬返しとは、そこから先は急峻で馬が入れない地点という意味らしい。

こんなところを馬が登って行ったのだろうと考えてしまうが、当時はこんなにえぐれていなくて、もっと平坦な道だったのだろう。

馬返しに到着。標高は約200m。

今日は登山靴を履きトレッキングポール持参で、山登りスタイルでやってきている。ただ、登山靴が足にこなれていなくて、足先が痛い。

たしかに、ここから先は馬は上れないだろう。

次第に岩が多くなってきた。

御門跡。銀山城の南麓の出入り口にあった門。門といっても、自然石を積み上げたもの。ただし、通路を直角に曲げる、後の城で言う「枡形」の原型があると言う。

御門を抜け進む。

馬返しまでの風景と異なり、岩が目立つ。

千畳敷に到着。本丸があった場所。

周囲に生える、背丈の低い小竹は、弓矢に使ったそうだ。

巨岩の脇を通り…

頂上への分岐に到着。

頂上に向かう。

頂上はすぐ近く。

 頂上に到着。

武田山。標高410m。シニアのご夫婦が昼ごはんを食べていた。他にもう一人のシニアが、アンテナの立ちにくいガラケーで苦心されていた。ここに上るまでに、5~6人の人に出会っているから、いわば市民のハイキングコースとして定着している感がある。

頂上からの眺望はいい。大田川、広島湾、似島他の島々が見える。昔は海がもっと近かっただろうから、陸路も海路もよく監視できたと思われる。

「御守岩」と名づけられている大岩。

頂上から一段下がったところ。館跡か。

「鶯の手水鉢」と名づけられた、人工的なくぼみ。用途ははっきりしないが、飲用ではない。

頂上でゆっくりした後、さっきの分岐点まで戻り下山する。下りは、登りとは反対の東山本の登山口まで下りる。

案内表示が各所にあるので迷うことはない。

観音堂跡。

観音堂の近くにある上高間というところ。見晴らしスポットになっている。

画面中央の奥に、厳島が見える。

上高間から下る。

下高間。上高間も下高間も、観音堂の庭園か休憩所兼見張り所のあったところと言われている。

馬場跡。馬置き場があった。

東山本登山口まで530m。かなり下りてきた。

ふもとが見えてきた。

東山本登山口に出る。

出発地点の下祇園駅に戻る。かなりの距離はある。

13:15、下祇園駅近くまで戻る。先ほど上った武田山。約3時間半のウォーキングだった。

毛利元就との関連で言うとと、この城を巡っては1524、1541年、2度の戦いがあったが、毛利軍は最初は尼子側、二度目は大内側として参戦している。当時の安芸地方は、山口の大内氏と出雲の尼子氏の覇権争いの場所になり、毛利氏を初めとする安芸国人衆は、生き残るために、そのときどきで大内側、尼子側と立場をめまぐるしく変えていた。
戦国時代、結果的には毛利氏の支配下に置かれ、元就の隠居城として使う予定もあったが実現はしなかった。広島城が築かれると、その重要性は低下し、関が原の戦いの後は廃城となった。

2019年1月19日土曜日

祐徳稲荷神社 (2019. 1.19)


午後は、肥前鹿島の祐徳稲荷神社と、鹿島から南に下った太良町にある海中鳥居に行く。両者を知ったのはまったくの偶然で、神社はタイの人気ドラマの舞台になりタイ人観光客が多いとテレビで見たため、後者はいつかJR九州の車内ポスターで「引力の見える町」とPRされていたため。

午後2時過ぎ、肥前鹿島駅に到着。長崎本線の駅である。有田からは肥前山口で乗り換えたが、電車に遅れがあった。というのも、長崎・佐世保両線とも単線で、電車のすれ違いや通過待ちが、それぞれの電車の運行に複雑にリンクしており、一つが遅れると連鎖反応的に他の電車も遅れることになる。

JRの駅から神社前までは祐徳バス。しばらく待ってバスに乗る。運賃¥320くらいの距離。

祐徳稲荷神社入口に到着。小腹がすいたので、屋台でたい焼きを一つ買い、歩きながら食べる。

鹿島駅周辺はひっそりしていたが、ここは参拝客で活気がある。

最初の大鳥居を通過。

2番目の鳥居を通過。神社までの参道が長い。

参道沿いにはたくさんの土産物店が軒を並べる。

ようやく神社前の鳥居に到着。

左手の橋の向こうには博物館がある。

橋の手前を右に曲がり、神社に向かう。

祐徳稲荷神社のHPより。
祐徳稲荷神社:伏見稲荷大社、笠間稲荷神社とともに日本三大稲荷の一つに数えられる。年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。衣食住、生活全般の守護神として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。(ウィキペディアより)

朱色が鮮やかな手水舎。

橋を渡り本殿に向かう。

 本殿はあの上にある。

なんとも荘厳な神社である。観光客が多いのもうなづける。

 御神楽殿。

階段を登り本殿に向かう。

本殿に到着。

賽銭を入れて祈祷。

境内を見下ろす。

本殿の奥にある奥の院への登り口。約300m。陶山神社での山登りが予定外だったが、ここは予定通り登ることにする。

去年行った、北長門の元乃隅稲成神社や、津和野の太皷谷稲成神社でも見たトンネル鳥居がある。

頑張って登る人が多い。

鳥居のトンネルをくぐる。

あと200m。ここで少し下る。

再度登り階段。

この辺からきつくなる。皆さんも息切れ切れ。でも楽しそうだ。

あと100m。

振り返ると、たくさんの人が登ってきている。さすが人気の観光地だ。

ようやく奥の院に到着。

展望台で一休み。

有明海が見える。

皆さん、苦労して登った後の眺望を楽しんでいる。

「この先難所あり」。下りは別の道を下りる。どんな難所か楽しみだ。

確かに急な下り坂だ。

くさり場でもあるかと思ったが、ここが一番狭く、難所だった。

かなり下まで下りてきた。

踊り場みたいなところから…

本殿の舞台を見上げる。

無事、参拝終了。

本殿の下には、おみくじ付で\300のエレベーターがある。神社が観光に力を入れているのが見て取れる。

せっかくなので\200払って日本庭園に入る。

椿が咲いているとのこと。

菰に守られた赤い椿。

白と紅のツーショット。

黄色い蝋梅と白椿のツーショット。

庭園内を歩く。

せせらぎの音が快い。

庭園を後にする。

先ほど登った奥の院を見上げる。標高は約130mくらいだった。

神社を後にする。

神社前の大橋の上から、神社の遠景。

橋の横の公園に、もう梅が咲いている。蝋梅とのツーショット。

参道を入口に戻る。

駐車場には車がいっぱい。駐車場はこれ以外に3つくらいあったから、かなりの参拝者がおとづれるのだろう。

ほとんどの人は車で来るので、バス乗り場はひっそりしている。それでも16:15のバスには、自分以外に中国人の家族を含め、6~7人はいた。

次に、今回の旅の最終地、太良の海中鳥居に行くために電車に乗る。太良は肥前鹿島から4つ目の駅だが、普通電車しか止まらない。1~2時間に1本しかない。17:03の長崎行き普通電車。

17時半過ぎ、多良駅で下りる。

北へ歩くこと約10分。鳥居が見えてきた。こんな静かなとこに、何台か車が止まっている。知る人ぞ知る観光スポットなのだろう。

駐車場から。

鳥居に近づくため浜に下りる。

若い男女のカップルの写真を撮ってあげているおばさん。バシャバシャ撮っていた。

モデルの男女の席が空いたので、鳥居に近づく。
海中鳥居を有する大魚神社にも、有明海に関する伝説が語り継がれています。約300年前、住民たちは、満潮時には沈んでしまう沖ノ島(太良町)に酔った悪代官を残して懲らしめようとしました。そこに大魚(ナミウオ)が現れて、代官を助けたそうです。この悪代官は、それ以来改心し、大魚神社と海中鳥居を建立したとされています。(じゃらんニュースより)

手前の鳥居をくぐり、これぞ、海中鳥居。引き潮のときは先まで歩いていける。

干潮時の鳥居。(ネットから引用

有明海は干満の差が大きく、5~6mになるという。今は満ち潮。

向こうに見える海中通路まで行く。

すでにかなりの部分が海に浸かっている。

満ち潮の勢いは速くて、撮影に気をとられていると、足元が浸かってしまった。

海中通路から黄昏る鳥居を見る。

帰りの電車までかなり時間があるので、鳥居のところまで戻り海を眺める。

中国人のグループがやってきた。にぎやかに撮影している。

もう一度海中通路に行ってみる。

見る見るうちに潮が満ちてくる。

夕闇の中で、波の音を聞きながら、この旅を振り返える。波の音には癒される。ひょっとしたら、ここが今回の一番お気に入りかもしれない。

途中コンビニで休憩し、月明かりの下、多良駅に戻る。

多良駅待合室。誰もいない。

次の上り電車は、19:18。これを逃したら、今日中には広島に帰れない。電車は微妙に番線を帰る。1番のりばでいいのだが、向かいにも灯りの点いた2番のりばがある。待っている間に、学生が1人やってきて座ったので、この番線でいいかを尋ねて確認する。

多良駅で折り返す鳥栖行きがやって来た。これに乗る。あとは肥前鹿島で特急に乗り換え、博多まで行き、博多発21:09広島着10:11の新幹線に乗る。

一部福岡・熊本を含め、佐賀県内を縦横無尽に動き回った2日間だった。