2020年4月30日木曜日

折敷畑山 (2020. 4.30)

現在、コロナウイルスの関係で休みが多い。今回は5連休。3日続けて山に登ったので、今日はオフにしようと思っていたが、先の天気が良くないようなので、よく晴れた本日、近くの山に登ることにした。廿日市四季が丘の北西に位置する、折敷畑山(おしきばたやま)。登山口は宮園公園近くにあるらしい。(後で調べたら詳細に調べた地図があった。)

宮園公園に駐車しようと思ったが、連休中で利用者が多くいっぱい。

公園前のグランドに駐車する。

高速をまたいだ反対側に登山口がある。

電柱に小さい案内がある。

しばらくは舗装路を登る。

何カ所か鉄塔がある。

見晴らしのいい鉄塔の下から。高速道路と四季が丘団地。右の山は、野貝原山。

山道に入る。

ふかふかの落ち葉の道。

尾根道に出ると、風が吹くせいか、落ち葉が少ない。

また落ち葉の道。

また尾根道。

そして落ち葉の道。このパターンが続くようだ。勾配は緩やか。

最初の分岐に出る。

火の用心と一緒に、小さな表示がある。登山口にあった、赤と黄色の表示。2色の表示には「折敷畑山→」があり、赤1色のテープは道案内と、2種類の表示になっている。

表示に従い山頂に向かう。

少し勾配が大きくなるが、急登というほどではない。

休憩地はないので、大樹の下で一休み。

時折、道がはっきりしなくなるが、赤テープを頼りに進む。

斜面を登る。

最初のピーク、三角点。標高365m。

ピークから下る。

尾根道を行く。

登り返し。

倒木を乗り越える。

 折敷畑古戦場跡に到着。ここが第2のピーク。厳島合戦の前年、毛利軍と陶軍の戦いがあった。

戦いの詳しい説明があるが、細かく読む気力もなく、後で調べることにした。
天文23年(1554)、毛利氏と陶氏が断交後初めての戦いを繰り広げた古戦場跡。陶氏と断交して自立を決意した毛利元就は、廿日市に兵3千を進め、桜尾城を本営とした。これに対し、陶晴賢は家臣の宮川甲斐守房長に7千の兵を授けて安芸に向かわせ、陶軍は桜尾城を見下ろす形で折敷畑山に布陣。6月5日、山麓の両軍は衝突。毛利軍の奇襲によって陶軍は総崩れ、宮川甲斐守は討死した。合戦の跡を示す標柱が、歴史の流れを静かに物語る。(はつかいち観光協会HPより)

古戦場跡から下る。立木に串戸講と書かれたプレート。何の意味かよくわからない。

登り始めて同じ景色の道が続き、後から写真を見ても、どこの写真か覚えていない。

斜面を登る。

倒木をくぐりぬける。

スマホのマップからして、もうすぐ山頂。

10:50、山頂に到着。登山口から約1時間半。折敷畑山、標高445m。登山口からの標高差は、約360m。

野貝原山への縦走路が続くが、現在は行けないようだ。

山頂に、休憩する場所も展望地もないので、すぐに下山開始。

古戦場跡で一服する。ここが四季が丘分岐になっている。四季が丘にも登山口がある。こちらから登る人も多いようだ。

展望所の矢印がある。この矢印は、この先に展望所があるという意味か、ここが展望所で矢印の方向が桜尾城か、2通りに解釈できるが、どちらにしても、展望はなかった。

展望地も休憩所もないので、滑らないように、ひたすら下山する。

唯一の展望所だった鉄塔を通過。

登山口に戻る。同じ目線に高速道路が見える。

隣に、カラオケボックスの廃屋。廃れた風情がいい。

高速をくぐりぬけ…

宮園公園に戻る。落ち葉だけが記憶に残る登山だった。落葉だけが印象に残った。いままでで一番地味な山かもしれない。

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