午前中は雨、雨が止むのを待って午後から出かける。五日市の坪井にある観音寺。この時期、アジサイが見頃の寺。3年前に一度行ったことがあるが、たどり着くまでにずいぶん迷ったのを覚えている。
今日は、すんなり到着。「あじさい祭」の幟が立っている。6月第日曜日から7月7日まで。
観音寺本堂。観音寺は臨済宗妙心寺派に属するお寺。
本堂に上がると、風鈴が下がっている。「風鈴祭」も開催中。
アジサイは本堂の裏から見て回る。
アジサイの花の色について:
アジサイの花の色は土の酸度によって決まると言われているのは有名ですよね。アジサイの色のベースとなるのが「アントシアニン」という色素で、そこに「補色色素」と土の中に含まれる「アルミニウム」が働いて色が作られます。アントシアニンと補植色素はあじさいの花の中に含まれているものです。土の中のアルミニウムが紫陽花の根に吸収され、アントシアニンと結合するかどうかで、花の色が決まることが多いようです。アジサイの青色は、土中のアルミニウムが吸収され、色素と結合して発色します。逆に、アルミニウムが吸収されないと、ピンク色になります。アルミニウムは酸性土壌でよく溶け、アルカリ土壌では溶けません。だから、土を酸性にすれば青花になり、中性~アルカリ性ではピンク花になると言われています。(お花屋さんの手帳より)
また、白い花には色素が含まれないので、土壌に寄る変化はない。
ちなみに、アジサイ全般の花言葉は「移り気」。また、花の色により花言葉は変わる。(アジサイの花言葉はここに詳しい。)
アジサイを見て回る。
入口に、階段を登った遊歩道にも咲いていると案内があったので、登る。
一段高いところの遊歩道。
観音寺が見える。
さらに一段登る。
ここにもわずかながら咲いている。
分岐に出る。右にホースが伸びているようなので、登ってみる。
花はなく、この先は山登りになるので、下に下りる。
先ほどまで雨が降っていたので、雨に濡れた草木を分けながら進む。服もびしょぬれ。
この辺は、青い花が多い。
アジサイをバックにお地蔵さん。
出口に向かう。
本堂の裏に戻る。
遠くに五日市の町並みが見える。また、小雨が降り出したので、早々に引き上げた。
2020年6月30日火曜日
2020年6月28日日曜日
篁山<竹林寺> (2020. 6.28)
昨日街歩きしたので、今日はオフにするつもりだったが、雨の日が多い昨今、今日は貴重な晴れマークなので、出かけることにした。急登もなく比較的登りやすいと思われる、篁山(たかむらやま)。そして、その山頂付近の竹林寺。どちらかと言うと、竹林寺のほうが有名である。
JR山陽本線・入野(にゅうの)駅から歩き、 篁山に登ったとは、河内へ下山するコース。
AM7:30、入野駅で下車。
登山口まで2.2km。
入野駅方向を振り返る。のどかな風景。
目印にしていた、たかむらの里。竹林寺古道の石碑が立つ。右側の道を進む。
「天平のみち」と名づけられた遊歩道入口。
「八千代千日の願参拝路」。 篁山の名前の由来となった、小野篁(おののたかむら)の母、八千代が千日間、竹林寺に詣で身ごもったのが篁とういう言い伝えがある。
その参拝路を登る。
小野篁の娘といわれる(諸説あり)、小野小町の像と、有名な歌碑「花の色は…」。
小野篁の象。小野篁に関する伝承は多く、なかでも、毎夜地獄に通い、閻魔大王のサポートをしたという話は印象深い。
小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。(六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説より)
八千代像。
一休さんもいる。
県立自然公園 篁山竹林寺。
難解な? 開き方マニュアルを参考に、扉を開き通る。開けた後は必ず閉めること。
舗装路は終わり、山道に入る。
梵字岩。
丁石、「初」とあるから、ここが基準点か。ゆるやかな道が続く。
しばらく登ると、 姫路滝の休憩所。むかし、上の方にある城から、お姫様がすすぎものに下りてきたとの伝承。
少し休んで、登山再開。ここから石が多くなる。
やや急登。
激しい土砂崩れの跡。注意して進む。
松ヶ嶽城跡への分岐。
土塁跡と思われる道を、城跡に向かう。
松ヶ嶽城の説明。南北朝初期から室町戦国期に存在したものらしい。
案内の前を左に進んだが、倒木のバリケード。乗り越えられないことはないが、先に何があるのか分からないので、引き返す。
案内の右下に、本丸跡の矢印があった。
登ると、井戸の跡があった。本丸の言葉から、見晴らしのいい展望所を想像して探したが、見当たらなかった。どうやら、この付近一帯が本丸跡のようだ。
登山道に戻り、竹林寺に向かう。
梵字岩と丁石。九とあるから、もうすぐだろう。
松ヶ嶽城の図解入り説明があった。倒木のバリケードの先に、二の丸、三の丸があるようだ。
竹林寺下の石段を登る。白いアジサイが美しい。
仁王門。
真言宗御室派 竹林寺。御室派は、先日、京都で訪れた仁和寺が総本山。
八千代にちなんで名づけられた八千代橋を渡る。
橋の両側には、アヤメかカキツバタの池。
篁山竹林寺。そういえば、高知で登ったのも竹林寺だった。
竹林寺は、標高535メートルの篁村山(たかむらやま)山頂にある寺院である。寺蔵の竹林寺縁起絵巻(えんぎえまき)によると、天平2年(730)行基(ぎょうき)がこの山を訪れ、光輝く桜樹を刻んで千手観音(せんじゅかんのん)をつくり、これを本(ほん)尊として桜山花王寺(さくらざんかおうじ)を建てた。さらに八千代(やちよ)という女性が、当寺へ一千日夜中参詣の願(がん)を懸けて授かった子供が小野篁(おのたかむら)で、篁は後に京に行って出世するなど篁と当寺の関係は深い。その後、篁山竹林寺と改めたと伝えられている。(ひろしま文化大百科より)
本堂の左、護摩堂。
本堂の右、十王堂。
三堂を右から。
調べてきたところでは、篁山山頂は竹林寺と離れているという。竹林寺の周囲を探したがそれらしきところはなかった。竹林寺を後にする。
八千代橋を出たところに、山に登る道があった。
鐘楼がある。
その先に、阿弥陀堂・三重の塔跡。
その裏に標識があった。篁山、標高522m。登り初めからの標高差は、380mくらい。標識は3つかかっていた。
東屋で一休み。
鐘楼から、入野方面。
河内に向けて下山する。
分岐がある。右は旧道で通行止め。左に立つのは、小野篁生誕の地の石碑。まっすぐ行く。
すぐ先に展望所。車でここまで上れるようだ。
展望所から、これから下る河内方面。
河内方面は林道。
分岐に下りる。右が入野方面、河内方面はまっすぐとなっているが、マップで見ると駅から離れる方向。車なら大丈夫だろうが…
左側に、通行止めの道がある。トイレのある駐車場で、少し休み、調べてきた資料で道を確認する。どうやら、車は通行止めで、歩くには差し支えないようだし、河内駅にも繋がる。
今は車も通らず、苔むした林道を行く。
古い標識。かすかに、河内と読める。
少し行くと、新しい標識があった。登山者用のものだろう。
ガードレールがあるから、かつては、ここが竹林寺への林道だったのだろう。
道路の下を通過。
激しい土砂崩れの跡。これが、通行止めの原因か。
花王の滝。竹林寺から2km、河内駅へ2km。ちょうど中間地点。
河内の集落が見える。
林道と登山道の分岐。ここは、右の登山道へ。
歩きやすい道。
出口が見えてきた。
河内川からの登山口。時刻は10:40。
河内駅に向かう。
駅に向かいながら、篁山を見る。
広島空港は右の山の向こう。左奥に見えるのは、山陽自動車道。
高知駅の近く。ここにも竹林寺への案内がある。
河内駅に到着。
11:16の下り電車で帰る。
JR山陽本線・入野(にゅうの)駅から歩き、 篁山に登ったとは、河内へ下山するコース。
AM7:30、入野駅で下車。
登山口まで2.2km。
入野駅方向を振り返る。のどかな風景。
目印にしていた、たかむらの里。竹林寺古道の石碑が立つ。右側の道を進む。
「天平のみち」と名づけられた遊歩道入口。
「八千代千日の願参拝路」。 篁山の名前の由来となった、小野篁(おののたかむら)の母、八千代が千日間、竹林寺に詣で身ごもったのが篁とういう言い伝えがある。
その参拝路を登る。
小野篁の娘といわれる(諸説あり)、小野小町の像と、有名な歌碑「花の色は…」。
小野篁の象。小野篁に関する伝承は多く、なかでも、毎夜地獄に通い、閻魔大王のサポートをしたという話は印象深い。
小野篁(802年〜852年)は参議小野岑守の子。嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともある。(六道珍皇寺と小野篁の不思議な伝説より)
八千代像。
一休さんもいる。
県立自然公園 篁山竹林寺。
難解な? 開き方マニュアルを参考に、扉を開き通る。開けた後は必ず閉めること。
舗装路は終わり、山道に入る。
梵字岩。
丁石、「初」とあるから、ここが基準点か。ゆるやかな道が続く。
しばらく登ると、 姫路滝の休憩所。むかし、上の方にある城から、お姫様がすすぎものに下りてきたとの伝承。
少し休んで、登山再開。ここから石が多くなる。
やや急登。
激しい土砂崩れの跡。注意して進む。
松ヶ嶽城跡への分岐。
土塁跡と思われる道を、城跡に向かう。
松ヶ嶽城の説明。南北朝初期から室町戦国期に存在したものらしい。
案内の前を左に進んだが、倒木のバリケード。乗り越えられないことはないが、先に何があるのか分からないので、引き返す。
案内の右下に、本丸跡の矢印があった。
登ると、井戸の跡があった。本丸の言葉から、見晴らしのいい展望所を想像して探したが、見当たらなかった。どうやら、この付近一帯が本丸跡のようだ。
登山道に戻り、竹林寺に向かう。
梵字岩と丁石。九とあるから、もうすぐだろう。
松ヶ嶽城の図解入り説明があった。倒木のバリケードの先に、二の丸、三の丸があるようだ。
竹林寺下の石段を登る。白いアジサイが美しい。
仁王門。
真言宗御室派 竹林寺。御室派は、先日、京都で訪れた仁和寺が総本山。
八千代にちなんで名づけられた八千代橋を渡る。
橋の両側には、アヤメかカキツバタの池。
篁山竹林寺。そういえば、高知で登ったのも竹林寺だった。
竹林寺は、標高535メートルの篁村山(たかむらやま)山頂にある寺院である。寺蔵の竹林寺縁起絵巻(えんぎえまき)によると、天平2年(730)行基(ぎょうき)がこの山を訪れ、光輝く桜樹を刻んで千手観音(せんじゅかんのん)をつくり、これを本(ほん)尊として桜山花王寺(さくらざんかおうじ)を建てた。さらに八千代(やちよ)という女性が、当寺へ一千日夜中参詣の願(がん)を懸けて授かった子供が小野篁(おのたかむら)で、篁は後に京に行って出世するなど篁と当寺の関係は深い。その後、篁山竹林寺と改めたと伝えられている。(ひろしま文化大百科より)
本堂の左、護摩堂。
本堂の右、十王堂。
三堂を右から。
調べてきたところでは、篁山山頂は竹林寺と離れているという。竹林寺の周囲を探したがそれらしきところはなかった。竹林寺を後にする。
八千代橋を出たところに、山に登る道があった。
鐘楼がある。
その先に、阿弥陀堂・三重の塔跡。
その裏に標識があった。篁山、標高522m。登り初めからの標高差は、380mくらい。標識は3つかかっていた。
東屋で一休み。
鐘楼から、入野方面。
河内に向けて下山する。
分岐がある。右は旧道で通行止め。左に立つのは、小野篁生誕の地の石碑。まっすぐ行く。
すぐ先に展望所。車でここまで上れるようだ。
展望所から、これから下る河内方面。
河内方面は林道。
分岐に下りる。右が入野方面、河内方面はまっすぐとなっているが、マップで見ると駅から離れる方向。車なら大丈夫だろうが…
左側に、通行止めの道がある。トイレのある駐車場で、少し休み、調べてきた資料で道を確認する。どうやら、車は通行止めで、歩くには差し支えないようだし、河内駅にも繋がる。
今は車も通らず、苔むした林道を行く。
古い標識。かすかに、河内と読める。
少し行くと、新しい標識があった。登山者用のものだろう。
ガードレールがあるから、かつては、ここが竹林寺への林道だったのだろう。
道路の下を通過。
激しい土砂崩れの跡。これが、通行止めの原因か。
花王の滝。竹林寺から2km、河内駅へ2km。ちょうど中間地点。
河内の集落が見える。
林道と登山道の分岐。ここは、右の登山道へ。
歩きやすい道。
出口が見えてきた。
河内川からの登山口。時刻は10:40。
河内駅に向かう。
駅に向かいながら、篁山を見る。
広島空港は右の山の向こう。左奥に見えるのは、山陽自動車道。
高知駅の近く。ここにも竹林寺への案内がある。
河内駅に到着。
11:16の下り電車で帰る。
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