2泊して、新居浜近辺の山に登る。
1日目は、旧別子銅山。新居浜ICで高速を下り、マイントピア別子から約20㎞。日浦登山口駐車場にに到着。
旧別子銅山案内板。銅山越を経て西山まで行く予定。
旧別子銅山:過去に繁栄した別子銅山の跡である。1691年に開坑され1916年に東平に採鉱本部が移されるまで別子銅山の中心地であった。(ウィキペディアより)
登山口。
すぐに橋がある。この先、いくつもの橋を渡る。
崖の上。
車で走ってきた道路。
整備された道が続く。
別子銅山専用の墓所。
鉄製の橋。
石垣。住居跡か。
小足谷。
石垣。
小足谷集落跡と醸造所跡。
小足谷醸造所で1870年(明治3年)からヰゲタ政宗を最高期は年間100KL製造していた。(ウィキペディアより)
上に接待館跡があるとのこと。
煙突。
接待館跡?
1901年(明治34年)から接待館として営業。その上に歴代採鉱課長の傭人社宅がある。(ウィキペディアより)
内側。
登山道に戻る。
最初の分岐。直進。
右は西赤石山へ至る道。「この一帯は、住友林業の所有地であり…」、別子銅山は住友グループの原点である。
右へ上がる。
小学校と測候所跡。
最盛期の1899年(明治32年)3月には生徒数298名教員7名であった。(ウィキペディアより)
石垣。
その上、ここに小学校があった。
さらに長い石垣。
土木課(劇場)と山林課。
土木課の倉庫。1889年(明治22年)建造で350坪あり、毎年5月には劇場として開放され歌舞伎が催行された。
黒橋。
橋の上から、上流。
緩やかな登り。
高橋製錬所と沈殿工場。
対岸に石垣。
この石垣は更に300m上流まで続いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式溶鉱炉と沈殿工場があった。 (東人の新居浜生活より)
住友病院跡。
明治32年の水害以降、一時期ここに移転していた。
標高1000m。別子小・中学校の生徒による標識。
迂回路、左へ。
りっぱなトイレがある。
ひと休みして出発。
また、すぐに休憩所。
高橋溶鉱炉とダイヤモンド水。
ダイヤモンド水。
かつてボーリングを行った時に、水脈に当たって水が湧き出し、ボーリングの先端にあったダイヤモンドの刃が地下に取り残されたため、この水をダイヤモンド水と言われるようになった。 (東人の新居浜生活より)
吊り橋。
トラス橋の焼鉱窯跡。
赤いのは、精錬して銅を採った残りの酸化鉄。
キノコ形のケルン。
2つ目の分岐。直進。
右は第一通洞南口経由で銅山越。帰りはここに戻る。
行きは、大山積神社経由で銅山越。
橋の上から…
白糸の滝?
苔の道。
ここにも石垣。
登り。
涸れ谷の両見谷。
見花谷。ここは少ないが水が流れる。
銅山越へ。
左に石段。
重任局と大山積神社。
神社跡。
1691年(元禄4年)より銅山の鎮護の神として延喜の端(縁起の端)から遷座した。(ウィキペディアより)
銅山越、あの上の方か。
かなり上流まで登ってきた。
透き通った水。
ここを登る。
岩場。
登山口方向。
西山方向。
ひと休み。
石の道。
最初、左のピークを西山と思っていたが、網繰山。西山は右のピーク。
3番目の分岐。左は大和間符経由で銅山越。右は、旧牛車道経由で銅山越。右へ。
下に、歩いて来た道。
旧牛車道。明治13年完成、翌年には18頭の近江牛が働いていた。
この牛車道は、広瀬宰平の元に雇われたフランスの鉱山技師ラロックの提案によるものであるが、ラロックの設計では 約53kmにもわたる長大なものであった。広瀬宰平は、ラロックの案から迂回路を廃し、勾配を急にして 約28km のものとして、明治9年に車道の敷設工事に着手したという。 (東人の新居浜生活より)
銅山越を挟んで、西山の反対にある東山。
別ルートと合流。
銅山越に到着。標高は1296m。登山口からの標高差、約450m。
今まで遠く小箱峠を越え宇摩郡天満浦まで運んでいたが、1702年(元禄15年)より184年間この峠を越え新居浜大江浜まて運ばれた。峰の地蔵はその間に峠で運搬中に亡くなった人々を祀っている。(ウィキペディアより)
峰地蔵。
東平(とうなる)へ下る道。なお、2年前に訪れた東平ゾーンは、現在、災害のため車での通行不可。
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