2022年10月11日火曜日

旧別子銅山② (2022.10.11)

旧別子銅山① (2022.10.11)より⇒

 

 銅山越から西山へ。

 

笹ヶ峰まで繋がっている。約5時間。

 

標高1300m。

 

右、西山。左、網繰山。


 

登り。


新居浜市街。

 

西山へ。

 

山頂近くは急登のようだ。

 

登り。

 

登り。

 

もうすぐ山頂。

 

西山に到着。標高1428m。


 

山頂は展望もないので、そのまま下山。

 

前に、東山、西赤石山、東赤石山に連なる峰々。東赤石山は、最初、今回の山旅の候補になったが、標高差が1000m以上になるので遠慮した。

 

見渡す。


銅山後と西山の間に、銅山峰のピークがあるはずだが、来るときに見えなかった。あのピークか。

 

脇に入る道があった。

 

標識がある。

 

銅山峰。標高1330m。

 

銅山峰から。

 

左へ寄り道。

 

展望所。

 

新居浜市街が見渡せる。

 

かすかに、しまなみ海道。


右へ別ルートがあるが、直進。

 

来た道を戻る。

 

銅山越に戻る。

 

下山。

 

右は登ってきた道。下りは別ルートで、左へ。

 

下る。

 

石の道。

 

登りのときのルートでの連絡ルート分岐。左へ下る。

 

橋を渡り左へ寄り道。

 

広い場所。

 

歓喜間符(別子本舗)。

 

入口。


歓喜間符(立川本舗)。

 

入口。

 

一帯を歓喜坑という。

ここは、別子銅山発祥の記念すべき最初の坑道で、工都新居浜発展の基となったところで市民の心に銘記さるべき地である。元禄3年(1690)坑夫長兵衛により嶺南に有望な露頭のあることを知らされた備中国(岡山県)の住友家経営吉岡銅山の支配人田向重右衛門らは、苦心して山中を調査し、この付近で見事な鉱脈を探し当て翌元禄4年幕府の許可を得て9月22日に採鉱を開始した。人びとはこの人跡稀な山中において、抱き合って歓喜し開鉱を祝ったところからこの名がある。上部一帯には山方という鉱夫の集落があった。 (東人の新居浜生活より)


上の方に、坑夫修行の跡があるらしい。どんな修行だろう。

 

登山道に戻り下る。

 

左に延喜の端へのルート。距離が分からないのでパス。

 

目出度(めった)町鉱山街入口。

 

大きな町があった。

ここから足谷川源流を渡り、蘭塔場を廻って山中に入ると目出度町である。銅山の中心街で明治時代にはここに重人局(鉱山事務所)、勘場(会計)、大山積神社、新居浜新座敷(持続館)、住友別子病院、郵便局、別子山村役場、小学校分教場、料亭一心ろう、伊予屋雑貨店や住宅が櫛の歯のように並んでいた。このように栄えた街も大正5年春、別子上部撤退後すべて撤去され、その跡は植林されて今は石垣の跡に昔日の面影を止めるにすぎない。(東人の新居浜生活より)


下山。

 

下り。

 

登り。

 

右は、登りのルートへの合流地点だが、左へ寄り道。

 

水路の脇を通る。

 

開坑課金庫跡。


第一通洞南口。


北と南をつなぐトンネル。

標高1146m。開削済みの代々坑(だいだいこう)をもとに1882年(明治15年)から嶺北の角石原へ向けて掘り始め、2年前日本の鉱山で初めてダイナマイトの使用実験に成功していたため、それを活用し4年の短い工期で長さ1021mの水平坑道が完成し銅山越えをすることなく南北が結ばれた。(ウィキペディアより)


東延谷。

1876年(明治9年)から近代化が始まり採鉱本部が置かれ中心地であった。本山鉱床が西から東に延びる実情にちなみ、さらに東に発展することを期待して東延と命名した。(ウィキペディアより)


分岐に戻る。


階段を下る。

 

下に、江戸時代の六角形の坑木。

 

橋を渡り、登りのルートと合流。

 

下山。

 

ダイヤモンド水に戻る。

 

来た道を下る。

 

劇場跡を通過。

 

13:40、登山口に戻る。


下は別子ダム。

 

時間があるので、別子銅山記念館へ。大山積神社。

 

記念館は神社の境内にある。入場無料。

 

マイントピア別子4Fの、別子温泉〜天空の湯で風呂に入り、ホテル(東横INN新居浜駅前)に向かう。



旧別子銅山のコース。

⇒大森山~佐々連尾山 (2022.10.12)へ


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