毎年、紅葉を見に行っている。2018年は京都の貴船神社、2019年は大分の耶馬渓。今年はどこにしようかと思った。人が密になる神社仏閣や観光地は避けて、山に登ることにした。昨年5月に登った石鎚山。ネットで調べると、標高が高いのですでに見頃という。昨年はロープウェイを使い成就ルートで登ったがきつかった。今年は登りの緩やかで標高差も少ない土小屋ルートで登る。登山口にアクセスするために、伊予西条で1泊する。いつものパターンで、登山は2日目。1日目は来島他を訪れる。
2年半ぶりに、しまなみ海道を走り、四国に入る。見えるのは広島と愛媛の県境の多々羅大橋。
9:10、渡船乗り場のある波止浜港に到着。
きれいな待合室。乗船券は販売機で買う。往復320円。便は、来島~小島~馬島を往復している。次は10:10、しばらく待つ。
渡船に乗る。乗客は7~8人。
左が来島、右が小島。
来島に向かう。
5分で到着。来島は、人工34人(2007年)の小さな島。下船したのは自分を含めて2人
「来島村上水軍」の旗。向こうは、来島城の守り神として建立された、八千矛神社。
古地図で城内の配置を確認しておく。村上水軍は因島村上氏、能島村上氏、そして来島村上氏の3家がある。前者2つは、因島水軍城や村上水軍博物館など観光地になっており、しまなみ海道の旅で訪れた。それに比べると、ここはひっそりしている。
きれいな待合室。
島内案内図がないので、三の丸から本丸へ登る道があるだろうと、西方向へ歩く。
登り口はなく行き止まり。引き返す。
港まで戻り東方向に行くと、案内があった。左の本丸方向にへ向かう。
石段がある。
左側は、石垣跡。
右の方に進むと、心月庵。来島城主の屋敷跡。
さらに石段を登る。
村上神社。
本丸に向かう尾根道。
二の丸跡か。
本丸に登る階段。
来島城本丸跡。
周囲約1キロメートルの来島全土を水軍要塞化した城で、南北約220メートル・東西約40メートルに広がった南北一列の梯郭式の中世城郭である。最北部に本丸があり、二ノ丸・三ノ丸が南に続いている。本丸直下の島中央部に来島氏の居館がある。また島の東南には出城が存在し、島周囲の岩礁にはかつての桟橋柱跡が多く残っている。築城は15世紀中頃とみられる。村上義顕の三男吉房が来島に分家した際に築いたものである。吉房子孫の来島村上氏(のち来島氏・久留島氏)は、6代約160年にわたって来島城を本拠地とした(戦時の防衛拠点としての居城であり、平時の居館は対岸の波方浦に存在した)。天正10年(1582年)、来島氏は因島氏とともに河野氏を裏切り織田信長側についたため、毛利氏、河野氏や能島氏による攻撃を受け、村上(来島)通総は備中国にあった羽柴秀吉の下に逃走した。来島氏の来島復帰は本能寺の変後の天正12年(1584年)で、秀吉と毛利氏の和睦の結果である。その後四国征伐に通総が先鋒として伊予を攻め、通総は秀吉から風早郡1万4千石を与えられた。関ヶ原の戦いの後、西軍に属した来島長親は所領を没収された。のちに来島氏は豊後国玖珠郡森で大名に復帰したが来島に戻ることは無く、来島城は廃城となった。 (ウィキペディアより)
本丸の南側。
本丸から、小島。
来島海峡大橋と馬島。
波止浜港。
本丸の北側。
先端から、大三島。
見晴らしがいい。ここで瀬戸を往来する船を監視したのか。
急流日本一の来島海峡。今日は潮の干満差の少ない日だが、それでも複雑な潮流が見える。
来島城から下りる。
柱穴跡の矢印方向へ。
島の東側を行く。
ここで行き止まり。結局、島は半周しかできない。
柱穴跡を探すが、場所の案内がないので、よくわからない。柱穴跡候補1?
柱穴跡候補2?
帰りの船は12:15。約1時間あるので波止場の先に座り、海を見ながら過ごす。
来島海峡の潮流。大きくはないが、渦ができている。
波止場の先から、来島の港。
鉄塔が立つのが本丸跡。
帰りの船が来たと思ったら、午後から乗るつもりの、来島海峡急流観潮船。
帰りの船がやってくる。
波止浜港に戻る。
しまなみ海道で大島に戻り、観潮船の出るよしうみいきいき館に行く。海鮮BBQが人気で、平日でも人が多い。しまなみ海道は料金が高い。今治北~大島南の1区間で1410円(軽自動車)かかる。
まず、しらす丼で腹ごしらえ。
一番早い船の予定が13:30なので受付に行くが、2名以上でないと船が出ないという。今日は、午前中が比較的潮の流れが大きくて、人は多かったが、午後は流れが小さく、まだ予約がない。連絡先を教え、しばらく待つ。コースとしては、ここに先に来た方が順当なのだが、今日は来島がメインだったので、このような結果になった。
14:00の便が2名以上になったとの連絡が入り、乗船場に向かう。乗船場は少し離れている。乗船場からみたいきいき館。
2名以上だが、自分も入れて合計3名。やはり、急流が見れないので人気がないようだ。潮流の時間は出航表に公開されている。潮流の強い日は満席になることも多く、要予約。
下田水港を出て、波止浜港まで行って帰ってくる。先ほど、来島の波止場で観潮船の航路を見ていたら、波止浜港に向かうので不思議に思ったが、造船所を見て戻ってくるようだ。所要時間45分。
来島海峡大橋の下を通る。
巨大なアンカレイジ。
橋のケーブルを固定する巨大なおもり「アンカレイジ」は海底から約90㍍、海面からは約60メートルの高さがあり、使用されたコンクリートは15万㎥とミキサー車5万台分にもなります。また、来島海峡大橋に使われた鉄の重さは約10万トン。 コンクリートの量もおよそ48万㎡でコンクリートミキサー車10万台分です。(来島海峡の見どころより)
毛無島。
来島海峡大橋を下から。
中渡島。
中渡島は、かつて村上清長を城主とした中途城(なかとじょう)があり、室町期には、隣の務司城(むしじょう)とともに水軍の本陣になりました。その城跡には現在白い灯台(中渡島潮流信号所)が建っています。(来島海峡の見どころより)
武志島。
暦1200年頃、武志島には、村上頼遠(よりとう)が築いた水軍の砦、務司城(むしじょう)がありました。今も石垣や古井戸、武者走りなどが残されています。 毛無島(けなしじま)、小武志島(こむしじま)はその出城になっていました。明治から大正にかけて、桃の栽培が試みられたことがありましたが、現在は無人島となっています。(来島海峡の見どころより)
小島。観光客の姿も見える。
囲約3キロの島。日露戦争前、日本はロシア海軍の瀬戸内侵攻にそなえて、小島に要塞を築きました。明治時代の海岸要塞としては、完全に近い状態で残っている日本唯一のものです。中部堡塁にあった28センチ榴弾砲6門は、日露戦争中に撤去され、戦場に送られています。うち2門は旅順に運ばれ、不落といわれた大陸の激戦地・203高地の攻略に重大な役割を果たしたと言われ、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」ゆかりの地として脚光を浴びています。(来島海峡の見どころより)
先ほど訪れた来島。
さっきは、あの先端からこちらを見ていた。
造船所で、船に接近する。
ここでUターン。
馬島の小さな神社。
馬島には、救急車両と島民の車が下りることができる。また、歩行者と自転車はエレベーターを使って下りることができる。
来島第二大橋と来島第三大橋を固定する巨大なおもり、アンカレイジが置かれている島が馬島です。しまなみ海道のなかで唯一、歩行者、自転車、125cc以下のバイクが橋に設置されているエレベーターで島に降りることができます。馬島の名前の由来は馬の形ではなく、昔今治藩の馬の放牧場があったからなんです。古くは「牧島(まきしま)」といわれ、伝説ではこの島には野生の青い馬と栗毛の馬の2頭が生息し、植えた種や収穫物を荒らしたといいます。そこでこの馬を退治したところ、作物ができるようになりました。(来島海峡の見どころより)
今治市街。
船長は何カ所か潮流ポイントに寄ったが、見ることはできなかった。今日は潮流よりも島めぐりが目的だったので、がっかりはしなかった。港に戻る。
最後に、タオル美術館に向かう。
美術館は4~5F。
タオルでできた、巨大な造形。
ここに来た目的のタオル製造工場に入る。ここから有料。
タオル製造の過程が細かく説明してある。
ゆっくりだが、下から織られた生地が出てくるのが分かる。
常設展示ムーミンの世界。
みんなタオルでできている。
チーズ巻糸の壁。
絵の具のパレットのよう。
この絵もタオル。
チーズ巻糸の通路。
常設展示、キャシー中島の世界。
タオルの糸の通路。
駆け足で回り、タオル美術館を出る。家族連れやグループで、ショッピングや食事を楽しめば、半日は過ごせるだろう。
こんな山の中にある。
伊予西条に行き、西城天然温泉ひうちの湯で風呂に入り、昨年と同じホテル、ルートイン伊予西条に向かう。
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