情報館・天空の城。
情報館を通り、踏切を渡る。
竹田駅の構内。
竹田城跡への登城コースは2通りあるが、一般的なコース駅裏登山道、右へ。
竹田城跡マップ。
立雲峡を振り返る。あの中腹まで登ったことになる。
堀沿いの道を行く。
途中にある法樹寺。
境内の奥にある赤松広秀の墓。赤松広秀は竹田城最後の城主。赤松広秀は、徳川家康の命により自害した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して西軍に与し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を包囲した。しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れると、包囲を解いて帰還。但馬に侵攻した亀井茲矩とは旧交があり、その説得で東軍に降伏して、その要請を受ける形で、西軍の宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めたが、このとき城下を焼き討ちして民家に放火したのを咎められ、戦後、徳川家康から切腹を命じられた。(ウィキペディアより)
石塔群。
駅裏登山道へ。
竹田城跡料金所まで800m。
整備された道を登る。
扉がある。登城時間に制限があり、季節によって異なる。今の時期、午前4時開門となっているのは、雲海の季節を考慮してのことだろう。
まずは緩やかな道。
だんだん勾配がきつくなる。
料金所まで500m。
立雲峡での登りが効いてくる。足取り重い。
料金所に到着。
自販機で、入城料500円のチケットを購入。
多くは麓の駐車場まで車出来て、舗装路を歩いて登る。
竹田縄張り。
城内は一方通行で、出口は別になる。
石垣を見て、疲れも忘れ、テンションが上がる。
大津坂本の穴太(あのう)衆による、野面積みの石垣。穴太積みと呼ばれる。
北千畳。
北千畳から立雲峡。
北千畳から本丸。
敵の侵入を防ぐ曲がった通路。
見事な野面積み。角は算木積み。
石垣の連なりで、岡城を思い出した。
順路を行く。
人同士が出会わないように、順路は細かく設定してある。
二の丸。
二の丸から、北千畳。
二の丸から、本丸。
二の丸から、南千畳。
本丸に向かう。
本丸を真下から。
本丸に上る。
天守台で、ボランティアの方の話を聞く。赤松広秀の自刃の後、竹田城は廃城になったので、石垣の城になってから、城として存在したのはわずかな時間だった。江戸時代になると、権威の象徴としての築城が増え、野面積みはなくなったが、野面積みのほうが堅固で、結果的に、竹田城は崩れることなく、今まで残っている。
天守台から、二の丸と北千畳。
立雲峡。
南千畳。
二の丸から南千畳へ。
本丸を下りる。
南千畳へ向かう。
本丸の下を下る。
北側の石垣。
南千畳の上にある広場。
南二の丸。
南二の丸から。本丸から二の丸を経て立雲峡。
南二の丸から本丸。
本丸をクローズアップ。
南二の丸から南千畳。
南側の石垣。
南二の丸の一つ下の広場。
南千畳。
南千畳から、本丸。
南千畳から、立雲峡、本丸へ。
天守台には、たくさんの人が。
出口に向かう。
城を後にする。
車道に出る。出口専用。
車道を下ると駐車場に行くが、途中で山道に入る。
案内マップにあった、麦米神社登山道。
案内通り、急な坂道。
麦米登山道の入口。
麦米神社の裏に出る。
境内に、見事な紅葉。
神社を出る。
長い参道を下りる。
麓に戻る。
登った竹田城跡を見上げる。標高差は200mくらいか。
情報館に戻る。
休憩所で昼ご飯にする。後から下りて来られた初老男性も昼ご飯にされたので、食べながらお話しする。今年の4月に、沖縄から大阪に転勤になったばかり。ときどき近くを歩いている。最近では六甲山に登った。沖縄に比べると、やはりこちらは寒い… などなど。また、あの首里城炎上の1週間前に、行かれたそうだ。
次の和田山行電車までしばらくあるので、うろうろする。駅のホームの向こうに竹田城跡。
13:44の和田山行に乗る。
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